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2005年9月13日 (火)

新会社法における取締役の責任

ひとつ前の商事法務(1740号)に、日本私法学会シンポジウムの資料が掲載されておりますが、新会社法423条1項(商法266条1項に対応)のもとでの「取締役の責任判断基準」について、京大の潮見教授の斬新な解釈理論が報告されております。とりわけ「取締役の会社に対する善管注意義務違反行為による損害賠償責任」の捉え方を、会社法の条文マターで解釈する伝統的な考え方ではなく、過失の客観化が進んできた民法理論を用いて再構築する考え方は、ぜひ判例理論としても新会社法のもとで展開されてほしいと思います。たしかに、最高裁の考え方は企業の法令違反行為=取締役の任務懈怠(取締役の無過失抗弁)という伝統的な解釈によるものですが、この判断基準ですと原告代理人としては、企業の法令違反を基礎付ける事実だけを立証すれば、取締役の「任務懈怠」が強く推定されてしまって、司法の場において、具体的な場面における取締役の行為規範を形成する機会が薄れてしまいますね。せっかく取締役にも社外取締役や常勤など経営参画のパターンが分かれ、取締役の内部統制システムの構築義務なども含め、ガバナンスの問題が社会で評価されつつあるところですから、「お上による規制」ではなく、原告と被告との一生懸命しのぎを削る法廷において、どういった立場のどういった取締役の行為が「任務懈怠」となるのか主張立証を尽くさせて、さまざまな場面での責任判断について司法のもとで「判例」によって形成されることが、今後の規制緩和の進む「小さな政府」のもとでの行為規範の作られ方として適切だと思います。そういった「これからの」司法判断の基準として、潮見教授が示唆されている「任務懈怠があったか、なかったか」「任務懈怠行為=過失評価」「企業の法令違反の事実があったとしても、取締役は、法令違反の認識の有無だけでなく、その他自らの行動評価も含めて、任務懈怠がなかったことの主張が許される」という取締役の責任理論が、新会社法のもとで一気に判例理論として適用されていくことを期待したいと思います。

なお、この潮見教授の解釈理論について詳細を紹介することはできませんので、もし興味のある方は商事法務1740号をお読みください。しかし、こういったものを具体的な訴訟の場において、裁判官に理解してもらうだけの文章力って、ムズカシイかもしれません。なんせ、私のイメージでは斬新な解釈理論を裁判所で採用してもらうためには、「一回読んで、すっとわかる」ものでないと受け入れられないと確信しているからです。「2回読んで理解できる」ものではダメです。1回読んで裁判官がスッと頭に入る・・・、そういった準備書面を書ける能力、これがどうしても必要です。(もちろん、私にはありませんが。。。)

商法266条1項の「法令違反」という言葉が、会社法423条1項では「任務懈怠」という言葉に変わりましたし、実際私がよく担当している医療過誤訴訟の裁判におきましても、医師の過失を基礎付ける理論として、過失の客観化理論はかなり適用されておりますので、今後の新会社法における実務での適用可能性は、かなり確率が高いと思うのですが。

(追記 9月13日)

現役の裁判官の方より、ご丁寧にメールをいただきました。

「1回読んで理解できる裁判官もいれば、2回読まないと理解できない者もいるので、それは読み手側の能力にもよるのではないでしょうか?」

なるほど・・・ごもっともでございます。ただ、私は「1回読んで理解していただく程度のわかりやすさ」でないと、たいへんな激務でお忙しい裁判官の方がたには、取り上げていただけない、といった部分をニュアンス的に表現したかったのです。やっぱり、私の文章能力が乏しかったかもしれません。(笑)

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コメント

私は,○○大学法科大学院既習3年生の者です。

2005年9月13日の取締役の記事読ませていただき,この記事に関心を持ちましたので,コメントを書かせていただきます。

従来の二元論の下において,法令違反が任務懈怠を構成するとしても,会社の損害との因果関係のある任務懈怠とを主張立証できなければ,原告が主張する損害賠償請求はできません。

例えば,食品会社の事件で仮に食品衛生法違反で免許が取り消されたという事案では,法令違反と逸失利益(免許停止中に関する得られる利益)との間に因果関係は肯定されやすいですが,記事にありますように,別の損害の時には,損害を現実化させた任務懈怠の具体的な内容を検討する必要があります。
これが特定できないときには,原告株主が,主張する任務懈怠からは損害は結びつくことはないので,主張自体失当になると思います。

しかし,取締役の任務懈怠を構成する具体的事実自体の主張立証は,会社の情報への距離が遠い株主にとっては,困難なものになっているのが現実です。
特に取締役の経営面における不作為が問題になるような場面においては,株主自体が経営判断をして,当該状況であれば,取締役は~いう経営をすべきだったという主張を結果回避可能性という問題とあわせて主張立証していく必要があります。しかし,これは困難であります。
このような証拠の偏在に対処するために,423条の利用を容易にしようと新たな解釈を試みるといという考えを提言するのが落合誠一教授の新一元論です。

この説は記事にも書かれていました潮見説を反映している面が大きく,今後に検討を続けるとのことです。
このような議論が発展していくには,民法の委任規定の判断考慮要素を裁判所において確立させていくことが必要であると思いました。

以下の記事のように,
『実際私がよく担当している医療過誤訴訟の裁判におきましても、医師の過失を基礎付ける理論として、過失の客観化理論はかなり適用されておりますので、今後の新会社法における実務での適用可能性は、かなり確率が高いと思うのですが。』
会社訴訟においても,進行させていく傾向が必要であるように思われます。

私の疑問は以下のものです。
記事には,
『司法の場において、具体的な場面における取締役の行為規範を形成する機会が薄れてしまいますね。せっかく取締役にも社外取締役や常勤など経営参画のパターンが分かれ、取締役の内部統制システムの構築義務なども含め、ガバナンスの問題が社会で評価されつつあるところですから、「お上による規制」ではなく、原告と被告との一生懸命しのぎを削る法廷において、どういった立場のどういった取締役の行為が「任務懈怠」となるのか主張立証を尽くさせて、さまざまな場面での責任判断について司法のもとで「判例」によって形成されることが、今後の規制緩和の進む「小さな政府」のもとでの行為規範の作られ方として適切だと思います。』
とあります。
この記事には賛成です。

ただ,ダスキン事件のように,公表するかしないかの決定について任務懈怠を構成した裁判例では,あの時点においては,不祥事を公表するしか他はないという内容がありまして,これは裁判所の司法権限の範囲を逸脱しているのではないかという疑問が残ります。
これは,裁判所における食品の安全と消費者の信頼という経験則が全面的に押し出され感情的な内容になっているだけであると思われます。
潮見教授は,「法律家たる者,価値判断だけでは,結論にならない,価値判断が正当で,これだけで十分というなら,法律家による法律解釈は不要となる」おっしゃています。

この記事も,判例を通じて任務の内容を特定していくことが望ましいとありまして,法律解釈の形成を通じて,取締役の任務を基礎づける重要な間接事実を探る研究が必要であると実感しました。

先生が,医療過誤訴訟において,結果回避義務を中心とする具体的事実を検討していく際に,重要な間接事実としてどのような事実をどのような根拠において抽出していったのかという点を,この記事でご教授お願いします。

投稿: 法科大学院大学院生 | 2008年12月13日 (土) 14時14分

法科大学院大学院生さん、こんばんは。まずは、私の3年ほど前のエントリーをきちんとお読みいただき、コメントをいただいたことに感謝をいたします。このエントリーで書かせていただいたことは、いまでも私の見解としては変わらないところです。

最後のご質問のところはブログという媒体をもって、回答することにはちょっと限界があるかなと思いますが、とりあえず、私が疑問に思いましたのは、

「ただ,ダスキン事件のように,公表するかしないかの決定について任務懈怠を構成した裁判例では,あの時点においては,不祥事を公表するしか他はないという内容がありまして,これは裁判所の司法権限の範囲を逸脱しているのではないかという疑問が残ります。」なるコメント内容です。

あの時点においては不祥事を公表するしかない、というのは、いわゆる取締役に「公表義務」を認めた、とする原告弁護団と同じ見解によるものでしょうか?ちなみに、私はダスキン高裁判決は、取締役に「公表義務を認めた」とは思っておりません。ダスキン高裁判決を熟読したうえでの私の見解としては、これはリスク管理義務違反を取締役に認めたものだと理解しています。
あの立場での取締役としては、公表するか、しないか、選択の余地があったと思われます。しかしながら、隠ぺいしていた事実が後日発覚する蓋然性が高かったにもかかわらず、そのリスクを十分認識することなく、単に発覚時期を先延ばしにしたにすぎないと判断しています。どうせ発覚するのであれば、早期に公表したほうが会社の損害を低減させることができたのに、それをしなかったことに「リスク管理義務違反」が認められる、として取締役らの善管注意義務違反を認めた、というのが私の理解です。これは、裁判官による裸の価値判断ではなく、当時の状況からみて、リスクがあったのかどうか、そのリスクを回避できたのかどうか、十分に事実認定をしたうえでの判断だと思います。そのあたり、どうお考えになられるでしょうか。

投稿: toshi | 2008年12月18日 (木) 00時56分

先生おはようございます。

私も以下の先生のコメントには賛成する意見を持っています。

『あの時点においては不祥事を公表するしかない、というのは、いわゆる取締役に「公表義務」を認めた、とする原告弁護団と同じ見解によるものでしょうか?ちなみに、私はダスキン高裁判決は、取締役に「公表義務を認めた」とは思っておりません。ダスキン高裁判決を熟読したうえでの私の見解としては、これはリスク管理義務違反を取締役に認めたものだと理解しています。
あの立場での取締役としては、公表するか、しないか、選択の余地があったと思われます。しかしながら、隠ぺいしていた事実が後日発覚する蓋然性が高かったにもかかわらず、そのリスクを十分認識することなく、単に発覚時期を先延ばしにしたにすぎないと判断しています。どうせ発覚するのであれば、早期に公表したほうが会社の損害を低減させることができたのに、それをしなかったことに「リスク管理義務違反」が認められる、として取締役らの善管注意義務違反を認めた、というのが私の理解です』

この事件で大きなポイントは,先生のご指摘のように,
1,ダスキン側が,口止め料を支払った会社に秘密が握られており,これが一般に公開される可能性があったこと
2,社外取締役が公表しないといけないと助言したこと,
3以上の事実と,食品会社は何よりもイメージが重要であることの事実かが高度の経験則に裏付けられていることから,
当時の取締役会には,公表するかしないかの裁量というのがなかった。つまり,当時不祥事を公表するという任務が取締役にあった。それにもかかわらず,これをしなかったという理屈であれば,経営判断原則との関係においても矛盾がないのだと思います。
この点においては,先生のご指摘とは矛盾がないと思います。
なお,不作為においても経営判断原則の適用可能性があるというのは,松井秀征『ダスキン株主代表訴訟事件の検討(中)』商事法務NO.1835・29頁です。

私がこの事件の裁判所の判断をみて,直感的だなと思ったのは,経営判断原則の適用があると考えたときに,Y5~Y13 の善管注意義務違反の判旨の「・・・それに対応するするには,過去になされた隠ぺいが既に過去の問題であり克服されていることを印象づけることによって,積極的に消費者の信頼を取り戻すために行動し,新たな信頼関係を構築していく途をとるほかないと考えられる。」という部分です。これは,私の経営判断の理解に関係するものですが,一般に教科書に書かれている「経営内容が著しく不合理であること」の規範それ自体が疑わしいものであると考えているからなのかもしれません。

先生のご指摘のように,経営判断において,リスク管理をどのように検討したのかという点を強調して考えるのであれば,賛成でありますが,上記判旨部分があるために,裁判の解決それ自体が,取締役側にとっては法律解釈により負けたのではなく,結論がはじめから決まっていたのねというような内容になったといわざるをえないものになっているのではないかと思いました。

前回のコメントの大学名を削除していただけますでしょうか?仕組みがわからなくて,書いてしまいました。

投稿: 法科大学大学院生 | 2008年12月18日 (木) 08時00分

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