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2005年11月24日 (木)

黄金株と東証の存在意義

黄金株と司法判断のエントリーに、辰のお年ご さんより、貴重なご意見を頂戴いたしました。ご意見と申し上げるよりも、問題提起と承っておいたほうが適切かと存じます。私は辰のお年ご さんのような証券取引法に精通された弁護士でもなく、また47thさんのように黄金株の短所、長所を知り尽くしている弁護士でもございませんが、たいへん熱意のこもったご意見をこのブログに残していただいたことに感謝をしつつ、素人ながら、ひとこと意見を述べさせていただきます。

このたびの買収防衛策導入とその開示方法に関する東証の規則案をみておりまして、黄金株を市場を利用して資金調達をはかりたい企業には禁止する、ということに落ち着くことは、現状としては理解できるところであります。ただ、私には理屈から考えてひとつわからないことがございます。

東証が制定する規則の「正当性」はどこからくるのでしょうか。

そもそも、この東証(東京証券取引所)は「法令に基づく自主規制機関」とされていますし、投資家保護を目的として参加者が遵守すべき規則を制定することは間違いないものと思いますので、どっかに規則制定について民主的コントロールが機能すべき「正当性」といいますか「法源」が必要だと思うのですが、この法源はどこに由来しているのでしょうか。このたびは、投資家保護を目的として、あと数年後には金融商品全般の取引、販売に適用されるべき「金融サービス法」が誕生するはずです。そういった横断的に投資家を保護する法律が出来上がるような時代に、証券取引法に定めた有価証券のみを取り扱う自主規制機関が、そのまま存続し続けるためには、いまよりももっと明確な存在根拠が必要になるはずですし、民主的コントロールの要請はいま以上に必要となるのではないでしょうか。

ところで、この「正当性」を考えるにあたって、証券取引法の根拠条文を探ってみますと、内閣総理大臣(金融庁)による免許制度、会員の規律(規則)記載義務、金融庁による是正措置、規則制定、変更にかかる認可権あたりでしょうか。しかしながら、証券取引所の制定に関する組織法上の根拠条文はありませんし(だから自主規制機関となるのでしょうが)認可制である以上は自主的な規則制定権は規定されておりません。東証の制定する規則は、金融庁にお伺いをたてて、そこで認可を受けることによって「かろうじて」その正当性の根拠を保ちうるのではないでしょうか。もちろん、東証が規則を制定することが妥当とされる政策的な根拠(専門性、迅速かつ柔軟性、コストの低廉性)は十分に理解しうるところであります。しかしながら、参加者がこの規則に従わなければならない「正当性」というものが、そのような政策的な理由に基づくものであるならば、東証の規則制定は万能であって、投資家保護と言いながら、投資家によるコントロールの及ばないところで、「これが投資家にとって最善の方法である」と決められてしまうような理屈になってしまわないでしょうか。

そんなに規則に不服であるならば、退場すべきである、との意見もあろうかと思いますが、それは最初から規則がそうなっている、というのであれば成り立ちますが、いままで市場に参加している者に対しては、突然のルール改正であり、「退場すべき」論は成り立たないものと思います。かろうじて、国民による民主的コントロールの及ぶ「政府」に認可を受けることで正当性を維持できる、ということでありましたら、金融庁担当大臣から、その中身についてゴチャゴチャ文句を付けられる、というのも、至極まっとうに思えるのですが。EU諸国におきまして、5件ほど黄金株が無効と判断されたケースがある、とのご指摘ですが、私も黄金株の導入例が司法判断によって否定される、ということは大賛成であります。これは投資家による事後規制の働いていることですから、ケースごとに黄金株の適用場面が形成されていくことになるわけでして、まさに投資サービス法適用下における民主的コントロールのあり方のひとつだと思います。また、イギリスはすでに2000年から金融サービス法が適用されており、黄金株導入には否定的とお聞きしておりますが、FSAの会長やCEO以下の役員はすべて英国財務省によって任命されるわけでして、組織法上も設立根拠は金融サービス法に正当性があると認識しております。

もし、東証の規則制定権の根拠が薄弱なままで、「黄金株の導入は、市場の将来にとって百害あって一利なし、これは投資家保護に悖るものである。これは市場を熟知している私たちが判断しているのだから」として、民主的コントロールの及ばないところで決定してしまうのが「正しい」ということであれば、会社を熟知している一部の株主が、(株主総会で消却できるものとして、かろうじて株主の意向を反映できるシステムとして)私たちはこの会社にとってだれが株主価値を最大化できるかを決定できるはずであるから、といって黄金株を導入するのが「正しい」と考える場面と、どれほど異なるのでしょうか。

誤解されませぬよう申し上げるところでありますが、私はそれほど積極的に黄金株を導入すべきである、との考えを妄信しているわけではございません。ただ、辰のお年ご さんが提起された問題について、あらためて考えてみますと、理屈の世界として、東証は規則のなかで、黄金株を否定できる資格があるのだろうか・・・と、逡巡してしまった次第であります。また、どこか大前提のところで、根本的な誤りがあるかもしれまんせんので、どなたかご遠慮なく、ご指摘いただければ幸いでございます。(でも、こんなこと、皆さん考えたことありませんでしょうか?私だけがへんなこと考えているんでしょうか・・・)

このたびは、どうも問題提起、ありがとうございました。

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コメント

当たり障りのないところで一言コメントを・・・。

> EU諸国におきまして、5件ほど黄金株が無効と判断されたケースがある

欧州司法裁判所が黄金株に対して極めて厳格な姿勢をとっているのは、EU域内における「資本移動の自由」を尊重しているというEU特有の事情があるからです。ですからEUでの動向をそのまま我が国に持ち込むのは難しいと思われます。ご参考までに。

さらに付言しておきますと、これまで5件の判決が出ておりますが、このうち黄金株が否定されたものが4件(ポルトガル・フランス・スペイン・イギリス)、肯定されたものが1件(ベルギー)、そして現在ドイツのVW法をめぐって争われている(らしい)です。


投稿: とーりすがり | 2005年11月25日 (金) 09時46分

補足していただき、ありがとうございます。

「とーりすがり」さんは、けっこういろんな面で問題意識をお持ちでいらっしゃいますが、まえの「とーりすがり」さんとか、葉玉検事さんのブログに登場する「とーりすがり」さんと同一の方なんでせうか?

投稿: toshi | 2005年11月26日 (土) 02時48分

同じ人間だったりします。

修行が足りないせいか向こうでも軽くあしらわれておりますが。

独立性ってのは重要なファクターだと思うんですがねぇ。会計監査人の独立性とか・・・。
実証研究とか言われてもなぁ・・・。

もうちょっと食い下がってみようかと思っとりますが。

EU特有の事情と申し上げましたが、考えてみれば投資しやすい環境を作るというのは別にEU域内市場に限った話ではないので、「資本移動の自由」と類似の政策を打ち出す意義は我が国においても十分にありますね。

イーホームズの方は問題点がかなり見えてきたような感じがしますねぇ。
「早い・安い・危険」。やはり構造的な問題のような気がします。

投稿: とーりすがり | 2005年11月26日 (土) 15時07分

まず、黄金株が何を意味するのか、定義をしてからでないと、議論がずれてしまうことがあるので、東証がまず一番最初にすべきことはここにあると思います。慣用としては、英国をはじめ海外では、民営化案件で政府等が一定の拒否権を保持するために発行されたもの、を指していると小職は理解しておりますが、東証の公表文では、拒否権付種類株式という意味で広くカバーしているように読めます。

黄金株について、EUの裁判について、EU固有の事情があったとの指摘は正当ですが、否定の理由の直接の根拠がローマ条約であって直接日本に関係のないもの(EU域内での資本移動の自由への制約)であっても、分析不要という価値判断をしてしまうのはどうかな、と思います(ある意味で、もったいない)。事実として、黄金株(基本的には民営化銘柄について、民営化後も政府がそのコントロールを一定限度で残そうという試み)が否定されているという事実はたしかにあるわけですし、国際的な傾向として、その利用は限定的になっていくという動向を知っておくことはまず重要でしょう。次に、そうでありながら、一定の要件を満たせば例外的に許容されるという部分についても考えておけば、より理解が深くなるといえるのではないでしょうか。なお、私見では、いろいろ濫用する事例を思いつくので、ルールとしては原則禁止としたうえで、例外許容、その例外の要件をやや厳し目としておいてその精査を通じて個別に「真に必要な場合」に対応していく、というあたりが適当ではないかと考えております。そのような観点から、「原則許容」を前面に押し出す論調とは、私見は異なっています。

次に、東証の規則の正当性について、基本的なポイントをひとこと。(東証と以下記載するところは、法律上は証券取引所と一般的に規定されていますが、便宜上東証とだけ記載しておきます)。上場物件としての適格性があるか否かを判断するのは誰か、というと、日本版ビッグバン後は、大蔵大臣が上場を承認するのではなく、証券取引所が独自に上場審査を行いその適否を判断することになっています。そして、東証は証取法108条により上場や上場廃止の基準や方法を業務規程の細則として定めておかなければならない、と規定されています(細則での規則化が「義務」となっている点に注意)。東証の細則も、業務規程の一部として金融庁の承認を得るようですので、ルール策定において、完全な東証のフリーハンドではないと思います。そして、上場物件としての適格性についての基準を定めたうえで、上場物件として適しているものを上場させて流通させることとともに、もし上場に適していないことが分かったものがあればそれには適切適時に対処しなければならないのではないでしょうか。その責務が東証にはある、と考えるべきでしょう。

裁判で争う余地がある方が良い、という一般論に反対をするものではありませんが、例えば個々の投資家が直接この問題を争う方法は、小職は想定できません。むしろ東証が責務を負う、その役割を果たさなければならないと考えられます。できるだけ司法で、という意見もわからなくないですが、法律上争う方策が難しい場合を想定すると、現実に望ましくない事態が残ることを容認することに繋がりかねないこともご考慮いただきたいと思います。

裁判については、むしろ、東証に上場廃止とやられたときに、会社側が東証を相手に差止めなどでその効力を争うという場合が想定されますが、むしろこのような場面がまさに司法での判断(特に取引所が持っている規則制定権とその限界という問題を直接判断する事案となるのではないでしょうか。(なお、某M社が大証を上場廃止になった際に裁判上争った例がありますが、事案が刑事がらみでしたし、先例として言及するのが適切か考えると躊躇がありますし、手元にその裁判の資料等がないため、なんとも申し上げられないですが)

最後に、上場廃止は、すでに流通している上場銘柄からその流動性を奪う効果を持つ行為ですから、滅多には抜けない伝家の宝刀というようなものです。投資家の利益(これは投資家全体といえると思います)を考え、投資家(実際に保有している株主、「具体化された投資家」と言い換えてもいいかもしれません)の利益が害されるという場面ですから、上場廃止という決定は相当慎重でなければならないといえると思います。違反したら上場廃止にしてしまえ、という表現をときに目にしますが、そんなに軽く実行できるようなものではないので、もう少し慎重な議論をお願いしたいというのが正直なところです。東証が上場廃止という処理をしたことが基準とも適合し、法的にも適法・適正であれば、その損害は会社経営陣その他原因を作った人たちということになります。カネボウの例で上場廃止について議論がありましたが、法的な面でももう少し検討する余地があるかもしれません(後日ということで)。

追伸
種類株については、有用性とともに濫用の危険を含め、まだ議論が十分になされていませんので、新会社法施行までの間、今後さらに議論が進展することが望まれます。

投稿: 辰のお年ご | 2005年11月27日 (日) 09時24分

辰のお年ご さん、またまた詳細なご意見を賜りまして、ありがとうございました。
中味を拝見いたしますと、いままでのエントリーとも関連するところも多々ありまして、きちんと私の意見も述べたいところもございます。きょうは子供の文化祭から帰ってきたところでして、手元に資料もないものですから、また月曜か火曜の夜に関連エントリーを差し上げたいと存じます。ただ、正当性のところは、「たしかにそのとおりかも」と少し納得しております。

投稿: toshi | 2005年11月27日 (日) 21時19分

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