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2006年6月23日 (金)

内部統制システム構築と取締役の責任論(後編)

(ブラジル戦を前にして、誰にも読んでいただけないことを知りつつ・・・・)さて、昨日の「内部統制システム構築義務と取締役の責任論」のつづきでありますが、この6月9日に大阪高裁から出されましたダスキン株主代表訴訟控訴審判決によりますと、原審では善管注意義務違反が認められなかった取締役、監査役(つまり、業務担当取締役および早期に異物混入肉まんの販売事実を知った代表者以外の人たち、社外取締役を含みます)にも、ひとり2億円余りの範囲において連帯して損害賠償責任を認めているわけでして、この損害賠償責任の法的根拠はどこにあるのか、といったところが大いに問題となるわけであります。

いかんせん190頁にも及ぶ判決文ですので、短時間に頭の中で整理するのも一苦労なんですが、このあたりの争点につきまして、株主側の代理人弁護士の方々(大阪でも著名な先生ガタが並んでいるのですが)は、内部統制システム構築義務という構成で主張を組み立てておられまして、一言で説明しますと「消費者の信頼を裏切るような重大な問題が発生したことが取締役会で報告された場合には、早期に重大問題発生の事実を公表して、企業としての具体的な対応方針をすみやかに決定できる体制を整備すべき義務があったのに、これを怠ったところに任務懈怠があった」と主張されております。ところが、高裁判決では、この株主側の主張にはほとんど何も回答することはなく、MD(ミスタードーナッツ)調査報告によって、違法添加物混入肉まんが、そのまま継続して販売されていたことや、関係当事者からの脅迫に口止め料を支払っていたことなどをすべての取締役、監査役が知った後の取締役会としての対応(いわゆるクライシスマネジメント、リスク管理「体制」のことではありません)と取締役の善管注意義務の関係を詳細に論じて、最終的には義務違反があったと結論付けております。突発的な会社の重大問題が発生した際に、取締役がいかに行動すべきか、といったことに関しては「経営判断の法理」が適用されるのが常道であって、その際における取締役らの裁量の範囲は広範なものとされておりますし、アメリカほどではないにせよ、日本の裁判所も経営判断については深く審査対象とはしないのが通説的見解かと思われます。そして、この高裁判例もこれまでの判例と同様、リスク管理(クライシスマネジメント)には経営判断法理が適用されることは当然のことである、との前提を崩していないようです。ところがこの判例は、本件では「経営判断の法理」は適用されないと明言されているんですね。なぜかと申しますと、会社の存亡にかかわるほどの「会社ぐるみの不祥事隠蔽工作」が将来発覚してしまうことと、このまま取締役会で何もしないで放置していることを秤にかけて、放置することで将来的な発覚がなかった場合に賭けてみよう、といった判断というのは、一見するとリスク管理のようにも思えるわけですが、この高裁判決は、「将来発覚することは確実に予想されていたことであって、当時の状況からして、発覚しないことに賭けるほどの不確実性はない」と、詳細な証拠認定から結論を導き出すわけです。したがって、経営判断法理が適用される「リスク管理」の概念が妥当するようなものではなくて、この取締役らの放置はいわば「いつ発覚するか、その時期を遅らせるだけの問題の先送りをしたにすぎない」と評価して、取締役らは、大きな傷を受けることになるけれども、一部の取締役の不祥事と口止め料の支払という過去の出来事を公表して、すでに自浄作用が働いていることを一般消費者に伝えれば、ひょっとしたら会社存亡の危機を回避できたかもしれないのだから、その方策を探らずにただ漫然と「事実を公表しない」といった方針を決めてそのまま放置していたことは、会社の損害回避のための措置を怠ったといわざるを得ず、善管注意義務違反を認めることができる、とされております。(もうひとつ大きな論点として、そもそも取締役らが早期に企業不祥事を公表していたとしても、同じようにマスコミに叩かれ、消費者からそっぽを向かれるのであるから、放置していたことと損害との間に因果関係は認められないのではないか、という問題がありますが、ここではその論点については割愛させていただきます。なお、この点についても高裁は独自の理論を展開しておりまして、今後の法研究者の方々による議論が楽しみな部分であります)

上記のような私的な判例分析から、本件はリスク管理とは言えないといった論理展開となっておりまして、逆に申し上げるならば、もし将来的に企業不祥事を公表しないことによって、そのまま企業不祥事を「うやむやにできる」ことが状況として「あり得る」ならば、これは「リスク管理の問題」となりますから、「積極的には公表しない」といった判断も会社の損害回避のための一手段としては検討に値するものである、と読めます。純粋に考えてみますと、取締役は会社から株主価値を最大化するために委任を受けて業務を執行しているわけですから、たとえ企業の存亡に関わるような企業不祥事が発生したとしても、それが隠し通せる可能性のあるものであれば、「墓場までみんなで持っていく」ことが違法とは言えない場合もありうる、ということも考えられるのではないでしょうか。実はこの高裁判決のなかでも、(当否は別として、と前置きしたうえで)違法添加物が含まれていた肉まんを継続販売した事実は公表すべきであったかもしれないが、うまく対応していれば「口止め料を支払った」という事実まで公表しないでもよかったかもしれない・・・といった記述がなされておりまして、なにもかも公表することが企業の使命というものでもなさそうだと思うところもあります。

いえ、私自身の感情的な部分で申し上げれば、企業コンプライアンスの立場からすれば今のご時世、たとえそれを公表することで企業の存続が危ぶまれるような不祥事であったとしても、入念な準備をしたうえで自ら積極的に公表して、消費者や投資家からもう一度信頼を回復する機会を与えてもらう「わずかのチャンス」に賭けるべきであり、「墓場まで不祥事を持っていく」ことは到底、取締役の行動としては許しがたいものであると思っておりますし、私が社外役員たる立場にあれば、そのようにご指導申し上げることは間違いないと思います。ただ、そういった場合、なにを根拠に不祥事を「墓場まで持っていく」取締役の行動を違法と評価するのでしょうかね。逆に申しますと、「隠せる可能性が高い」場合に、私が社外役員として、企業不祥事を公表してしまった場合、私はその企業の株主から善管注意義務違反として代表訴訟を起こされてしまうことになるんでしょうか?

ここまできますと、昨日も少し申し上げましたが、取締役の責任論に到達することになるんじゃないでしょうか。純粋な委任契約の範囲で取締役は会社の利益のために行動すべきなのか、それとも会社法の善管注意義務の根拠としては、もっと広く「株主プラスアルファ」の利益のために行動すべきことにあるのか、それとも「株主の利益」にいう「株主」というのは、現存する株主のことだけを指すのか、それとも企業の持続的成長の先にある「将来の株主」のことも含むのか、などなど。少なくとも「取締役は一般消費者のために行動すべきである」といった単純な図式では解決できない問題を含むものでありそうですし、内部統制システム構築義務といったきわめて「企業コンプライアンス」に結びつきやすい問題を解決する場合には、今後ずっとつきまとう問題を内包しているのが、この「取締役の責任論」ではないかな・・・・・と考えたりした次第であります。(なお、この高裁判決では、おふたりの社外取締役の行動につきましても、かなり詳細に検討されておりまして、その責任論とからめておもしろいテーマも見つけることができるんですが、ちょっとここまで書いて疲れてしまいましたので、また後日ご紹介することといたします。それではブラジル戦で日本選手が1点はゲットできることを祈りつつ、このへんで。。。)

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