内部統制と談合問題
(11月18日夜 注記つけました)
ある新聞社の記者さんから、川崎重工社の「ごみ焼却炉入札における談合を裁判所が認定した事件」に関するコメントを求められました。11月16日、神戸市に対して13億6000万円(入札価格の5%)の返還を命じる判決が神戸地裁で下されたようです。和歌山に続いて、宮崎でも官製談合が摘発され、最近の新聞ではほとんど毎日、談合関連のニュースが途切れずに報道されていますね。これは「談合事件が増えている」とみたらいいのか、それとも改正独占禁止法によるリーニエンシー(談合を自主申告した企業の課徴金適用、刑事告発を見送る制度)が有効に機能している(つまり、談合の数は増えているわけではないが、以前なら見つからなかった談合が簡単に見つかるようになってきた)結果とみるべきなのか、そのあたりは未だよくわかりませんが、いずれにしましても、何度も同じ企業が登場することもありますし、日本の社会においては、談合というものはなくならない仕組みになっているのかもしれませんね。
今年は何度か「企業コンプライアンス」に関する講演をさせていただきまして、いつもお話させていただくのですが、企業不祥事というものは、どんなに企業が精緻な内部統制システムを築いても絶対にゼロにはならない、ただし不祥事を減らすことは可能なのであるから、その努力を怠らない企業活動こそ評価すべきである、と私は考えております。つまり企業不祥事も企業にとっては(絶対になくなることのない)「リスク」でありますから、「リスク」の企業経営に及ぼす影響度を把握して、リスク回避、リスク対応策を平時より構築しておくべきです。とりわけ何度も同じ過ちを繰り返している上場企業の場合には、内部統制システムの開示が要求されるべき、と思います。通常、金融商品取引法において議論される内部統制ルールというものは、財務報告の信頼性確保のための評価対象であって、内部統制の仕組みそれ自体が開示対象となることはありませんが、むしろここではコーポレート・ガバナンスの仕組みのひとつとして、内部統制そのものが開示の対象とされるべきであります。
なぜ「内部統制を開示すべきなのか」その理由は以下のとおりであります。それは公正取引委員会が談合摘発に動き出した時点、マスコミが報道を開始した時点で、対象企業はきまって「現在事実関係を調査中であり、コメントはできない」とリリースし、その後は他社の動き(勧告に応じるか、談合の事実を一切否認するか)を注視する姿勢に転じます。これを繰り返していること自体、企業が談合を容認している、つまり企業コンプライアンスを軽視していることを物語っております。そこで談合事件で法人が処罰された場合であれば、企業はこの「現在事実関係を調査中」なる対応をやめる方策を検討し、談合関与の噂が出た一両日中には「談合をトップが認めるか、それとも一切否認するか、その企業としての回答を出す」体制を作る必要があります。なぜなら、事前に評価可能なリスクである以上、自社のどの部署で談合が発生する可能性があるかを平時に検討し、もし談合の噂がある場合には、どの担当者の責任において、どういったシステムで何を調査すればいいのか、そのシステムを整備しておくことは可能だからであります。つまりリスク管理方法をあらかじめ開示して、有事(公取委の動き)の際には、そのシステムの運用によって企業としての情報を開示する必要があります。こういったシステムを社会に開示して、平時より運用し、そして談合発生との噂が流れたときの瞬時の企業トップの表明があれば、たとえ悲しいかな現実に談合に当該企業が関与していたとしても、その企業の談合根絶への姿勢だけは評価されるべきものと思いますし、なによりそのような内部統制システムの運用自体が、談合発生可能性を低減し、「企業ぐるみの談合容認」と評価されないための防波堤になるものと思います。上記川崎重工社にしても、いろいろと談合に関与している企業でも「最高益」をひねり出す時代ですから、談合事件への関与発覚ということが、それほど企業コンプライアンスという視点からみて重要度が高くないのかもしれませんが、談合発覚のたびに、役員がそろってマスコミ記者のまえで謝罪をして、社会的非難が弱まるのもじっと待つ・・・といった意識だけはそろそろ変えるべきではないでしょうか。「談合」と金融庁内部統制ルールとの関係はそれほど大きいものではないかもしれませんが、そういった企業の対応自身が「法令遵守を無視する経営者の態度」と受け取られ、内部統制監査の基本である「統制環境」「全社的内部統制」の評価ポイントが厳しくなることはまちがいないものと思います。
もうひとつの重要な点は、「談合根絶のためには刑罰の適用だけでは機能しない」というところです。法によるサンクションとは別に、一般社会による監視とルール無視への評価にさらす(開示する)ことも有効ではないか、という視点であります。そもそも談合によって経済的利益が企業にもたらされる以上は、その罰則が金銭的に過少なものであれば、その効用には限界があります。また、ひょっとすると時代が変わって、談合根絶による品質低下を一般社会が嫌う時代がくるかもしれません。コンプライアンスの内容は、その時代によって変容します。「談合社会をどうみるか」その時点における社会常識にさらしてみて、社会が厳しく制裁を求めるのであれば、談合に寛容な企業に対する社会的信用は毀損されることになるでしょうし、時代が談合に寛容であれば、談合規制のあり方のほうが改正されるかもしれません。談合回避のためのリスク管理を各企業がどのように考えて対応しているのか、その仕組みを開示することの重要性を十分認識され、それをIR活動としても機能させるべきだと思います。
(注記)
ある法科大学院の先生からメールをいただきましたので、付記しておきます。本件川崎重工の事件は平成12年に申し立てられたものですが、平成14年の法改正(地方自治法242条の2、1項4号)により、現在では住民自身が直接、談合に関与した企業を相手に訴訟を提起することはできなくなりました。そこで最近では独禁法25条もしくは民法上の不法行為に関する規定(もしくは不当利得に関する規定)により、発注機関である地方公共団体自身が損害賠償請求訴訟を提起しているようです。また、民事訴訟法248条(損害の性質上、その額を立証することが極めて困難である場合の裁判所による損害額算定)を利用して、談合による損害額は5%から10%と認定されるケースが多い、とのことです。(フォローしていただき、ありがとうございました)
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コメント
私は、談合は有価証券取引法・金商法、会社法にも関係はするが、根本的には独禁法なり不公正取引防止関係の法の問題だと思うのですが。社会としてどのように取り組むのかであり、一企業が談合をしないと言って、その企業が業界から締め出しをくうのか、或いはその業界の談合がなくなるのか、よく解りませんが。私が、頭に浮かぶのは不公正取引に非常に厳しい米国です。
投稿: 売れない経営コンサルタント | 2006年11月17日 (金) 11時56分
こんばんは。
そういえば、昨日の朝日新聞夕刊文化欄に「日本社会の中の株式会社」と題する編集委員の論稿があって、これがなかなか示唆に富んでいます。
この論稿は、「企業倫理」とか「コンプライアンス」、「CSR」等々がブームの如く叫ばれる背景的なところを、様々な学問領域(経営学、倫理学、哲学)の論者の説を紹介しているものです。
中で個人的に面白いなぁと思ったんのが、「社会主義経済の衰退」が背景にあるとする川本教授(東京大学)の説です。曰く「資本主義経済への『批判者』が居なくなったために、資本主義の内部から出てきた一種『反省』ではないか」と。
これ結構当たっているような気がしますねぇ。
(因みに、私の知合いのご老人で、企業倫理の問題を語るとき、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引合いに出す訳の判らないジイさんもいたりします。浅学の私はこの古典を読んだことがないので、論評のしようがないのですが。)
殆ど関係はないのですが、今日のエントリーを読んでふっと思い立ったものですから、ご紹介した次第です。
投稿: 監査役サポーター | 2006年11月17日 (金) 22時51分
>経営コンサルタントさん
いつもコメントありがとうございます。
談合に対する日本と欧米との倫理意識の差ってなんでしょうかね?
先日、欧米の取引所の提携に危機感を募らせて、世界の7つの投資銀行が平等に負担して新しい取引所を開設する、と発表していましたが、なんといいますか、競争ルールというものに対する感覚が身についている人種とそうでない人種があるように思います。ホント日本人というのは、自分が取り締まる立場にないかぎり、談合は悪いことって感覚あるんでしょうかね?ご指摘のとおり、法律があるから悪いこと、って具合の認識ではないでしょうか。この独禁法関係の問題は法律だけでなくて、社会規範のようなものとの関係もものすごく強いものだというイメージを私はもっております。
>監査役サポーターさん
いつも監査役サポーターさんは、私がつい読んでみたくなるものをご教示いただき、感謝しております。人間は気をつけていないと、「楽なほうへ、さらに楽なほうへ」と思考を低下させていくところがあるんじゃないでしょうか。このブログの中心テーマにも関連しますが、ご指摘の「内部統制」とか「CSR」「コンプライアンス」という言葉は、非常に耳に心地いいですし、その外縁が明確でないために、「なんとなく人を説得させようと思うとき」には非常に都合のよい言葉です。ただ、法律的な市民権を得るためには、まだまだ中身があいまいなために、言霊がこもっていないといいますか、力のない言葉にすぎないと思っております。資本主義の中から出てくる反省の言葉以上のなにものでもないのでは・・・といったところ正鵠を得ているような気もします。果たして日本という国に、こういった概念がどう定着するのか、しないのか、これからも思考を低下させることなく冷静に見つめていきたいと思います。
投稿: toshi | 2006年11月18日 (土) 01時44分
こんばんは。
いつも拝見しております。神戸の司法書士です。
先生のコメント、新聞で拝見しました。川重くらいの大企業ですと、先生の言われるように「特別なリスク」といった認識はもっていないように思います。順守宣言をしたり、内部統制を開示する、ということはすでに2002年の神戸製鋼事件のときに、神戸製鋼もやっておりましたが、残念ながら今年神戸製鋼は不祥事を起こしました。やはり地道な社員研修や、職務分掌の徹底などで「社内の開示」を実行することが大切ではないかな、と思ったりしています。私もコンプライアンス・オフィサーの資格を取得しましたので、またそういった会合で先生とお会いできるのを楽しみにしております。
ブログの続けるのは本当にたいへんかと思いますが、どうか頑張ってください。
投稿: 力丸(りきまる) | 2006年11月18日 (土) 02時05分
同じエントリーで何度も失礼を致します。
ふと思いついたのが、福島佐藤前知事の収賄容疑です。贈賄側(前田建設工業と思いましたが)は、時効の3年が成立していたため、刑事免責となっていました。
このような場合、会社としてコンプライアンスの観点では、密告する義務はないが、捜査に協力する義務はあると考えます。でも、一方で損害賠償等民事上の義務が発生する恐れが考えられると思うのです。又、役員・従業員は時効成立により警察・検察からは積極的な捜査協力を求められると思うのです。
更には、会社として贈賄を行ったのであれば、この贈賄時にコンプライアンス違反が生じていたと考えます。捜査協力を行ったことは、贈賄を認めたわけで、内部統制の不十分であった点、改善した点を公表することとなるのかなと思ってしまいした。
投稿: 売れない経営コンサルタント | 2006年11月18日 (土) 13時13分
>力丸さん
はじめまして。コメントどうもありがとうございます。
統制環境の整備として、代表者の「談合決別宣言」「営業に関する評価項目宣言」を社内で浸透させることは非常に重要だと私も思いますし、不可欠な統制手段だと考えております。ただ、なぜ何度も繰り返してしまうのか、なにをしたら繰り返さなくなるのか、そのことをサラに徹底して検討する必要がありますし、そのためには「企業の姿勢」を単に「宣言」ではなく、プロセスとして開示しなければいけないと思いますね。所詮談合はなくならない、という諦念だけでは議論が進化しないと思いますし、企業リスクと捉えて、そのリスク発生の低減化だけは努力を怠らないということが、これからの企業に求められるものと思いますが、いかがでしょうか。
>経営コンサルタントさん
贈収賄も談合と並んで、立件の困難な事件であるがゆえに、企業としても「なくならない犯罪」ですよね。基本的には社長による「私は知らない。現在調査中である」といったコメントを許さない体制をとれるかどうかだと思います。しかし、贈収賄事件というのは、ある日突然、そうなっちゃったということはありませんよね。私も刑事事件の弁護人の経験がありますが、贈収賄事件は、その「ある日」のために、ながい関係者の歴史があるわけでして、その歴史のなかでも「これはマズイんじゃないの」と思える出来事がいっぱい存在します。したがいまして、企業は「贈収賄の決定事実」を根絶するというよりも、その前提事実に該当する行動自体を根絶できるはずであって、そのあたりをもうすこし研究すべきだと思いますね。あと、最近は贈収賄事件について、いわゆる下請企業に「汚れ役」を押し付けるところも多いわけでして、そういったケースでも、私は内部統制の問題として親企業にもなんらかの責任を負担してもらわないと「贈収賄」はなくならないと思っております。(まあ、これは簡単にはいかないようですが)
投稿: toshi | 2006年11月19日 (日) 10時56分
内部統制と談合問題のとは外れますが、
>マスコミが報道を開始した時点で、対象企業はきまって「現在事実関係を調査中であり、コメントはできない」とリリースし、その後は他社の動き(勧告に応じるか、談合の事実を一切否認するか)を注視する姿勢に転じます。これを繰り返していること自体、企業が談合を容認している、つまり企業コンプライアンスを軽視していることを物語っております。
この部分については、必ずしもそのようにいえないと思います。
まず、最初の段階では、状況が不確実なケースが多く、この時点で「こうである」とか言ってしまうと、調査の結果、それと違ったときに、マスコミは、自分たちは嘘を付かれたと勝手に解釈して、嘘をついた、他にも嘘があるのではないかと勘ぐり、余計な事まで詮索して攻め口か広がってしまいます。したがって、リスク管理上、最初の不確実な時点では、「調査中」という対応をせざるを得ないというのが実情です。
また、先日の講演会で郷原教授もおっしゃっていたように、マスコミのコンプライアンスやマスコミの報道姿勢というのが、極めて偏向しているため、企業としてもそれに対応していく必要性があります。プレスの仕方を間違えると、正しい姿勢で正しくディスクローズしても、過剰報道により、火に油を注ぐ結果になることもあります。
確かに経営者が故意に隠蔽したり、嘘を言うケースもあり、そのような経営者はコンプライアンス意識が著しく欠如しているといえますが、マスコミの姿勢(エセ・ジャーナリズム偏向、聖人君子的正義感、一部の正しい取り組みがあっても結果論だけで全否定する姿勢など)を考慮しての企業としての止むを得ざる対応である場合もあり、必ずしもコンプライアンス意識が欠如しているとは言い切れないかと思います。
投稿: コンプロ | 2006年11月20日 (月) 23時22分