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2007年6月 6日 (水)

企業法務と事実認定の重要性(上)

つい先日「企業不祥事の適時開示に関する疑問」なるエントリーを書きました。そのなかで、従業員の不祥事が発覚した場合の企業の適時開示に関する処方につきまして、持論を展開させていただいたわけですが、酔狂さんよりご異論を頂戴しました。きょうは、そのご意見をもとに、「企業法務における事実認定の重要性」について持論を述べさせていただこうかと思います。といいますのも、私は企業法務専門弁護士というわけではございませんが、17年ほどの一般民事、刑事事件の裁判経験のなかで、なにが現在の企業法務の実務に一番役立っているかと申しますと、法令知識や法律解釈能力よりも、経験に培われた「事実認定」能力である、と考えているからであります。おそらく2年後に迫りました「裁判員制度」におきましても、裁判員に任命された皆様方をもっとも苦しめるのは、この「事実認定」のムズカシサではないかと思います。民事事件と刑事事件との事実認定方法の差異というものをまったく学習することもなく、いきなり刑事事件(しかも重大犯罪)の事実を確定せよ・・といわれましても、これはたいへんな難問であろうかと思いますし、職業裁判官も、予断排除原則からみて、軽々しくヒントを与えるわけにもいかないと思いますので、今後の裁判員制度の運用にはたいへん苦労するところが予想されます。以下は法律家を代表しての意見ではなく、私個人の意見でありますので、あまり一般化しないでお読みいただければ幸いでありますが、ただこういった視点から職業専門家たる弁護士を企業において最大活用する道がある、ということを企業法務担当の皆様、企業経営者の皆様には知っておいていただければ、損はないと考えております。

今週月曜日の日経「法務インサイド」では、有事における株式持合い依頼とインサイダー取引の要件該当性といった、かなりレベルの高い議論が紹介されておりました。レベルの高い議論であるがゆえに、登場する専門家の方々のご意見もかなり分かれていたように思います。このブログでも以前すこし触れましたが、公表前に「重要事実」を知って株取引をしてしまうと、インサイダー取引に該当するということでありますが、この「重要事実」というものがどういう場合に該当するのか?といった問題は「事実認定」ではなく、法律解釈の問題であります。(現に最高裁判例による「法律解釈」が存在するところであります)法律を作ったり、作られた法律を解釈することは、純粋な人間の精神的創造作業でありまして、頭脳明晰な方々があれこれと議論をして「最大公約数」的な落ち着きどころを見つけ出せばいいのではないかと思われます。しかしながら、「事実認定」はまったく異なります。過去の事実の真相はタイムマシンでもないかぎり、「神のみぞ知る」ところでありまして、本来人間が踏み込むべき領域ではないと考えております。「いやいや、事実に関与する事件当事者は真相を知っているはずではないのか?」といった疑問を抱く方もいらっしゃるかとは思いますが、それはとんでもない誤解であります。裁判の代理人を経験すればすぐに認識できますが、人間の記憶というものは曖昧なものでありまして、バイアス(偏見や先入観)がかかってしまえば、事件の概要すら不明瞭なものになってしまいます。(これは現実の裁判制度において、偽証罪に関する規定が何の役にも立っていないことからも明らかであります)しかしながら、国家の文化水準の向上のために、社会の紛争を人間が平和的に解決しなければいけないわけでありますから、ごくごく少数の「神の領域に踏み込むことを許された人々」が必要となるわけでありまして、それが裁判官、検察官、弁護士(最近は司法隣接業種の方も)といった法曹職業人なのであります。したがいまして、この「事実認定」を行う際には、そういった神の領域に踏み込んでいることへの畏敬の念をもって精神的な作業を遂行する必要があるのであり、誠心誠意、全力を尽くして事に当たらねばならないと心しております。

ところで、企業コンプライアンスとか、企業の透明性といった概念が社会規範として受容されるようになりますと、なんでもかんでも裁判で決着をつける、ということだけでなく、行動指針を自ら見出すために、また社会から一定の評価を受けるために、企業自身もしくは裁判所以外の公正かつ独立の第三者が、この「事実認定に関与する」機会が増えてきます。(事実認定をする、ではございません。あくまでも「事実認定に関与する」であります)いわゆるソフトローの重要性が増す社会とでも言えばよいのでしょうか。たとえば先日のエントリーで採り上げました「適時開示」として開示する必要のある「発生事実」というものも、この「事実認定」作業が必要となってまいります。比較的簡単に事実の発生を認識できるものもありますが、企業不祥事の「発生事実」といったものは、おそらく認識が困難な部類に属するのではないでしょうか。たとえばタイムリーディスクロージャーに関する解説書などを丁寧に読みますと、上場企業は、ある事実が発生した時点で速やかに事実を開示すべき、とは書いてありません。正確には「ある事実が発生したと、企業が認識できた時点で開示すべき」と書いてあります。「ある事実が発生した、と企業が認識した時点」とは、いったい何時のことをさすのか?これがまさに重要なポイントでありまして、これは内部統制とは別個に開示統制システムを構築する場面におきましても有益な議論となるわけであります。

そこで、酔狂さんのご指摘を引用してみたいと思います。(少し長いので、半分に分けてご議論してみたいと思います)

TOSHI先生は「適時開示情報として公表する趣旨は企業業績との関連性ある事実ということでしょうから、たとえば企業が従業員の損害賠償責任について、民法上の使用者責任を負担する可能性の高いケースであれば、開示すべきでしょうし、そうでない場合には、マスコミ等で問題になったとしても、開示不要と判断するのがいちおうの基準かもしれません」と書いておられますが、私は、そう単純では無いと思います。

かつて不祥事対応をしていた私の体験からすると、仮に使用者責任を負担する可能性の高い場合であっても、適時開示に最も反対されるのは、警察だろうと思います。たとえば、社員が業務上横領を働いたとします。企業としては使用者責任を問われる可能性は当然あります。しかし、企業は同時に被害者になりますので、警察に被害届を提出しますが、それを受けた警察が、すぐに公開捜査に踏み切るという可能性は、どの程度考えられるのでしょうか。事案が複雑であればあるほど、捜査の着手に時間がかかり、公開捜査への移行が遅れていくのは、やむをえないことと思います。その時に企業が被害者として、適時開示をすると、著しい捜査妨害ということにもなりかねません。

このご指摘はたいへん鋭いと思います。私も内部通報制度(ヘルプライン)の外部窓口業務を担当しておりますので、こういった場面を何度か経験いたしました。ただ、「社員が業務上横領をはたらいた、とします」といった問題の立て方は、弁護士としての立場からしますと異論がございまして、それこそ「神の領域への侵入」にあたるのではないか・・・との疑念を拭えません。業務上横領をはたらいた・・・と確定的に事実認定することを許された人間は裁判官だけであります。そう考えますと、「発生事実」つまり、企業が事実発生を「認識しうる」時点といいますのは、いったいどの時点なのか、ということを一生懸命検討する作業が必要になってまいります。たとえ本人が「私がやりました」と早い段階から調査担当社員に申し出ておりましても、警察は業務上横領の告訴手続きについてはすぐに受理しませんし、また受理したとしても、証拠不十分によって不起訴となるケースも非常に多いのが現実です。(たとえば背任に関する告訴事件の起訴率は約30%です)早期の段階で適時開示してしまって、後で警察検察が不起訴処分とした場合、逆に適時開示の内容を修正したり、対象社員から名誉毀損で訴えられるリスクも発生します。(企業内におけるセクハラ問題等、内部通報制度の運用におきましても、このあたりは非常にデリケートな論点となります)業務上横領の被疑者自身が事実を認めており、かつ検察庁が起訴した時点あたりが、ようやく「業務上横領の事実を企業が認識した」と認めてもいい時点なのではないか・・・といった「事実認定としての」心証形成がおおむね妥当なところではないでしょうか。また、このように考えますと、酔狂さんが心配されておられるような「適時開示と警察の捜査との衝突」といった問題点も回避されることとなります。(これはあくまでも、私個人の意見であります)人間の精神作業としての「事実認定」には限界があり、また客観的な目的のもとで行うべきものでありますから、謙抑的に遂行されねばならないのであります。(かなり長くなりましたので、下へつづきます。下では、調査委員会による事実認定、コンプライアンス委員会の事実認定、インサイダー取引規制や確認書制度に有用な開示統制制度の事実認定などを整理したうえで、酔狂さんの談合罪に関するご意見に触れてみたいと思います)

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コメント

そもそも会社や投資家にとって重要な情報といえるかどうかという問題と、いつ重要になるかという問題とが絡んでいて難問ですね。アメリカでも(別の例ですが)ソフト・インフォメーションを開示すべき時期については見解の変遷があったようです。

一般の方がお持ちの「裁判」「事実認定」のイメージが法律家のものとずれている点は、たしかにもっと認識されるべきですよね。toshi先生ご紹介の西野先生ホームページの「身近な法律問題」を読むと痛感させられます。本当は、ロースクールの入学時にこういったことを学生に叩き込まないといけないのでしょうね。

「裁判における事実認定は絶対的真理の発見ではない」ことについては、下記の解説が気に入っています(著者は、某大学の法哲学の先生です)
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000310.html

投稿: けんけん@古いHN | 2007年6月 6日 (水) 09時15分

本日は、素晴らしいエントリー、有難うございました。とくに、「この「事実認定」を行う際には、そういった神の領域に踏み込んでいることへの畏敬の念をもって精神的な作業を遂行する必要があるのであり、誠心誠意、全力を尽くして事に当たらねばならないと心しております」との件には、本当に感動いたしました。私の拙稿が、先生のこうした哲学・信念を開陳いただく呼び水の役割が出来たとすれば、それだけでもお役に立てたと思っております。

しかし、事実認定に関して、再々「私個人の意見です」と断っておられますが、敬虔かつ前向きな先生のようなお考えが法曹界のすべての方に共通しているのだろうか、との疑念は捨てきれません。ましてや、企業内不祥事の大半の事実認定を行っている実務担当者となると、経営・管理的な観点や、他の社員への見せしめ的な観点が前面に出て、先生のような崇高な考え方のかけらもないという人が多いように思います。たとえば、多くの企業では、就業規則に「刑事犯に該当する行為」があれば懲罰の対象になる、と定めていますが、事実認定をどの時点で行うか、という点に関しては、まさにばらばらです。逮捕時点、起訴時点、判決時点のいずれを採用するかは、担当者の価値観、人生観にゆだねられているといっても、過言ではないように思います。そして、経営管理的な観点が強くなるほど、前倒しになっていくというのが、現実ではないでしょうか。

もう一つ難しいのは、ケースによって、千差万別であるということです。もちろん、先生がご指摘されるように、事実認定の難しいケースもありますが、大半のケースは、決して難しくはありません。難しいケースが先生のところに回されているとお考えいただくほうがいいと思います。その場合の事実認定の時点は、逮捕時点よりもさらに前にあり、判断時点の幅は、さらに拡大します。加えて、千差万別であるということが同じ人であっても、微妙な判断の差を生むことがあります。たとえば、前のエントリーでペッパー社の件に触れられていましたが、先生は、起訴時点という原則論から外れて、逮捕時点での適時開示を妥当と考えておられるように見受けました。私は、本件に関する情報は何も得ていませんので、無責任な言い方になるかもしれませんが、この場合、結果的には、妥当であるとしても、逮捕に100%の誤認がないという確証がない限りは、本当に妥当なのか、という疑念は拭い去れないように思います。

今回のエントリーにより、適時開示と検察警察との摩擦については回避可能ということはよく分かりましたが、適時開示をどの時点で行うことが妥当か、という設問に対しては、事実認定の時点に幅があること、実際の事例は千差万別であることの2点から、実務レベルでは、すっきりした回答が得られていないように思います。次号では、先生のご意見を中心にされながらも、実務レベルのニーズも加味したエントリーをお願いできれば、と思います。

投稿: 酔狂 | 2007年6月 6日 (水) 09時26分

はじめまして。先生が教員をされておられる大学の近くにあります別のところで法務教員をしている者です。おもしろいブログがあるぞ、と教えられて、最近は毎日拝見しております。
私は前職が判事ということもありまして、かなり勝手に神の領域に侵入していたひとりです。私も先生と同じように、どんな小さな民事事件でも、事実認定については気を使っておりました。細かいところでは多々異論もありますが、ロースクール生にもこの記事は紹介して、議論してみたいと思います。
匿名で失礼しました。また、(下)を楽しみにしております。

投稿: unknown | 2007年6月 6日 (水) 10時06分

いくつか疑問点・・・

1)経営成績に重要な影響(その会社の当期純利益の30%とか)がなければ、適時開示の対象となりません。このケースで適時開示を考える必要がありますか?(義務でなければ、開示しなくても問題はない。)

2)情報開示が、臨時報告書提出要件(金融商品取引法)なら、法律に基づく開示義務が生じるので、義務の衝突=法令に基づく開示命令と捜査の秘密性の衝突=が起こりません。(警察は、国民に法的義務に違反せよという権限はない。)

3)事実を認定する能力は、証拠に関する一定の説明を受ければ、専門家と一般人で差がないということが、英米法系の陪審制(及びそれに影響されたわが国や欧州大陸法系の裁判員制度)の前提とされていると思います。

4)事実の認識は、ある事実が発生したかどうかの問題であり、犯罪に該当するか否かの判断ではないと思います。ある行為が犯罪に該当するかどうかの最終判断は裁判所しか決定できません。ある程度の割り切りをするとき、専門家の判断は有益です。ただし、専門家の判断を聞いて従っても、それが直ちに名誉毀損罪の成立を否定する方向に働くとは考えにくいでしょう。(刑法理論で、違法性の認識可能性の欠如は犯罪の故意を否定しますけど、かなり例外的です。)

5)逮捕時点や起訴時点で、就業規則に基づき解雇する会社もあるでしょう。その場合、仮に被告人が無罪になったら、会社が解雇無効に基づく解雇後賃金の損害賠償のリスクを負います。起訴後の有罪率が高いので、実際はあまり問題となっていないと思います。

6)ある自動車会社のアメリカ子会社のセクシャルハラスメント事件のように、情報開示は、法令又は証券取引所の開示義務の問題より、社会的な説明責任(=報道機関に対する説明責任)の問題がはるかに大きいと考えられます。

投稿: そうかな? | 2007年6月 6日 (水) 10時29分

上の「そうかな」さんに疑問

義務でなければ開示しなくても問題ない
義務でなくても開示したほうがいい

という区別はありますよね。

義務がなくても開示したほうがいいといった判断なら
当然に考える必要があるんでは?
どのように考えるべきか、質問だけではまったくわからないので
教えてほしいです。

投稿: のん | 2007年6月 6日 (水) 11時59分

仮に「開示したいけど、警察が捜査の都合上開示を否定する=情報がもれて犯罪の立件が難しくなる」なら、警察の指示に従うほうが一般的だろうという趣旨です。
国家機関の犯罪立件の可能性を高めることを否定してまで、会社が状況不透明な不祥事を開示する積極的理由は、通常の場合なさそうです。
もっとも、警察が非公式に頼んできたときに、どうするかの問題は残ります。(このほうが一般的でしょう。)

法令又は規則に基づく適時開示としてではなく、会社の広報活動の一環として公表すれば足りると考えます。

個人的に疑問に感じるのは、臨時報告書提出要件より財務諸表に与える影響度が少ないけど、金融商品取引法に定めるインサイダー情報=証券取引所の適時開示事項(だいたい同じ)に該当する場合の処理です。
法律的には、インサイダー情報が発生または決定したら直ちに開示する義務があるとは言えません。情報が未公開のままで、関係する株式の売買が禁止されるだけです。一方、証券取引所は速やかな開示を上場会社に要請しています。

取引所の適時開示規則は法的義務ではありませんが、上場会社が事実上遵守すべきルールです。自主規制のルールと警察の非公式な依頼のどちらを優先すべきでしょうか?不安なときはプロに頼りたくなりますが、そのようなときこそ、自分の決断が必要とされるときです。責任から逃れるためにプロを頼ると、弱さを見透かされてプロから食い物にされる恐れがありますので・・・

絶対的な安心や保証を求めることが、非合理的なことです。どのような決定をしようが、後日それが社会的に広く批判されたら、責任者が辞任を余儀なくされます。何が批判されるか、事前に知ることは誰にもできません。

投稿: そうかな? | 2007年6月 6日 (水) 12時32分

比喩的な表現であろうことは重々承知しておりますが、先生、「裁判官、検察官、弁護士(最近は司法隣接業種の方も)といった法曹職業人」は「神の領域に踏み込むことを許された」「ごく少数の人々」、というのは如何なものかと。

ことほど左様に、自戒として畏敬の念をもって職務に邁進せよ、という(法曹界内部の)内向きのメッセージならば結構ですが、外向きにこんなこと言っちゃうと、「特権意識」が見え見えの印象があり、結構反発を招くんじゃないでしょうか。

刑事のことはよく判りませんが、民事について言えば、「事実認定」ってそんなに高度なものなんでしょうか。あるいは、高度な能力、専門性を要するものなんでしょうか。

尤も先生のおっしゃる「事実認定」の意味が、実は私にはよく理解できないのです。「(BでもCでもない)Aという事実があったか否か」というのが事実認定かと思っていたのですが、先生は、「業務上横領をはたらいたと事実認定」とおっしゃいます。ここでの「事実認定」は「会社のモノを取った(勝手に自分のものにした)かどうか」ではないんでしょうか。それが、業務上横領なのか、背任なのか、窃盗なのか、それとも犯罪でもなんでもないのか、は「法の当てはめ」ではないんでしょうか。

理解不足のままの単なる印象ですので、大きな誤解があればお許し下さい。

投稿: 監査役サポーター | 2007年6月 6日 (水) 23時47分

皆様方、ご意見どうもありがとうございます。

まず、私がエントリーで書いております「業務上横領」というものは「事実認定」の問題ではなく、「法へのあてはめ」ではないかとの疑問でありますが(おそらく、そうかな?さんの疑問点のひとつも、この点ではないかと思います)、それは誤解がございます。
ここではあくまでも「あてはめ」の前提となる「事実」を問題にしておりますので、業務上横領であれば不法領得の意思実現行為が「事実」であります。AがBから預かっていたものをとった、とった後にAの支配下で何かに使った、使った後に元に戻さなかった、というものであります。過失犯罪を基礎付ける行為もいろいろと特定できますが、その事実のなかから、何を取り上げて過失犯とみるか、というのが「あてはめ」の問題であります。この前提部分がきちんと認定できなければ「あてはめ」すらできないはずであります。

そうかな?さんの疑問のうち、
「事実を認定する能力は、証拠に関する一定の説明を受ければ、専門家と一般人で差がないということが、英米法系の陪審制(及びそれに影響されたわが国や欧州大陸法系の裁判員制度)の前提とされていると思います。」とされておりますが、これは大いに疑問であります。といいますか、到底私には理解困難なご意見です。
千差万別の事案に、「証拠に関する一定の説明」などありえませんし、専門家のなかでも能力に大きな差があるからこそ、法曹も切磋琢磨して死ぬまで経験を積まなければならないはずです。そもそも一定の説明を受けて事実認定能力がそこそこになるんだったら、事実審はふたつもいらないはずであります。

あと監査役サポーターさんより、表現からの印象では特権階級意識のあらわれであり、反発を買うのでは、とのご指摘がございましたが、外向き、内向きといった区別はとくに意識しておりません。なかなか表現が適切ではないのかもしれませんが、むしろ自分自身に対して向けられたものとお考えいただければ結構かと存じます。これを「特権階級意識のあらわれ」との印象を持たれるのはお読みになる方の「印象」ですのでやむをえませんが、これだけの意識をもって臨まなければプロとしては失格かと思います。ですから、私個人に向けられた反発であれば、堂々とお受けいたします。

なお、私の具体例がまずくて、事実認定そのもの以外のところで、疑問がございましたら、私ももうすこし検討したうえで回答いたしますので、少々お時間をください。

投稿: toshi | 2007年6月 7日 (木) 02時30分

事実に関する話は、法科大学院で教えられており、近年色々な文献が出ている「要件事実論」のことです。この分野は、従来司法研修所で教えられていたことを、大学院で教えるようになりました。興味のある人は、文献に当たって下さい。
読む価値があったかどうかは、読了後各自でご判断願います。昔はこの手の議論が大学法学部レベルでは手薄でした。個人的意見ですが、法学教育にとってどうでもいい分野だと感じます~法曹から反発を受けるでしょう。ただし、そう思っている法律学者はけっこう存在します。会計監査論における統計学の持つ意味づけと近い印象かな・・・

ある事実があったかないかは、物的証拠だけではなく、色々な人の証言や記憶が信用できるかどうかで判断されます。物的証拠の事実の証明力は、恐らく誰にとってもそれなりに分かる推論になるでしょう。(科学的捜査とでも言うのでしょうか?)

次に、この人が本当のことを言ってるか、うそを言ってるのかな・・・という問題があります。検察・警察関係者の出した本などを読んでいると、優れた捜査能力は学歴でもなく、知識でもなく、経験だけでもなく、やはり総合力の賜物のようです。全ての人がその人の年齢だけ生きてきており、経験も積んでおり、その中で多くの人と接しつつ相手に対して何らかの判断をしています。それが事実と合致しているかどうかの問題であり、この点でプロと一般人に差はないと考えています。むしろ人間の個人差の方が大きいのではないでしょうか?
例:捜査能力に優れた検事を集める東京地検特捜部の陣容は、学歴や経歴が多様である。なお、人間である以上誰でも間違うから、三審制です。

少年犯罪などを手がける家庭裁判所裁判官・調査官・弁護士が一様に述べるのは、少年は千差万別であり、その行動・真理・動機付けに一定の方程式など存在しないということです。そのため、少年にどう対応するか、個別的かつその時点で考える必要があり、試行錯誤になるようです。この人たちの感想のほうが、人間と関係する「事実」の認識に関して、核心を突いていると思います。
ところで、少年事件に携わる法曹より、不良少年を雇うような町の篤志家のほうが、はるかに少年の心をよく理解して上手に対応できることが多いそうです。

私は、年間数件のマネーロンダリング違反や年間数十件の証券取引法違反を防止する(????)企業法務やコンプライアンスより、こういったことのほうが社会的価値があると確信しており、かつ相当に難しいだろうなと思います。これらの皆様に心から敬意を表します。

投稿: そうかな? | 2007年6月 7日 (木) 08時28分

要件事実論とは、実体法の権利義務をどのように訴訟で主張立証するか、という実践的な問題だと思います。専門家にとっては、それなりの意義があります。しかし、権利義務へのアプローチを訴訟面からのみ理解すると、かえって権利義務が訴訟技術面で制約されるという結果を受け入れざるを得ないという、本末転倒の事態になります。

これは過去のローマ法やイギリス法で現実に起こったことであり、これを救済するためローマ法では法務官法が、イギリスではコモンローに対するエクイティ(衡平法)が発達する理由となりました。

法律学者がこの手の議論をどこか冷ややかに見ているのは、本来実体法を実現するために存在する訴訟技術が、逆に実体法を拘束することに対する嫌悪感や批判的意識があると思います。

投稿: プロのみご一読 | 2007年6月 7日 (木) 12時02分

そうかな?さまへ

昨日は説明していただき、ありがとうございました。

少年犯罪は刑事事件とは異なり、少年の更生に主眼がありますから、企業法務やコンプライアンスで確定される「事実認識」とは、かなり違うんじゃないでしょうか。(比較の対象にはならないかと。)
たとえ比較ができるとしても、少年事件でも、被害者にとってみれば「事実を知りたい」わけですよね。少年に近い立場の法曹だったら、試行錯誤などと言ってみてもいいわけですが、被害者に近い立場だったらどうなんでしょうか?やっぱり、どっかで事実認定をする役割を担う人たちが必要なんじゃないでしょうか。少年の更生のためにいろんな事情を汲み取ろうとする関係者の努力も大切かと思いますが、「真相を知りたい」と痛切に感じる被害者の遺族などの気持ちを汲み取ってくれる法曹の「事実認定」も、同じくらい大切ですし、やっぱりどっかで割り切るための専門家の技術というものも重要なんじゃないでしょうか。
私は法曹ではありませんが「物的証拠のもつ事実の証明力は、おそらく誰にとってもそれなりにわかる推論になるでしょう」といった考えはちょっとよくわからないところがあります。現に、会計士が指示して作成したニセの証憑なら、粉飾は容易です。それは誰にとってもそれなりにわかる推論でまかり通ってしまうのでしょうか。それとも、もっと単純な事例を念頭に置かれているのでしょうか。監査の現場では最近報告義務のことがいろいろと問題になっていますが、この事実の認定というのはとてもむずかしいなあと悩んでいるところです。

投稿: のん | 2007年6月 7日 (木) 15時04分

先生、ご無沙汰しております。
ある事案の調査のために、ヒヤリングを多数実施し、これから事実認定をしなければいけない段階ですので、事実認定の難しさには共感するところです。物的証拠が最初からあるなら苦労はいりませんが、ない場合もあれば捏造されているケースも多く、書類そのもの真正を逐一確認していかなければいけないので、非常に骨の折れる作業に孤軍奮闘しております。

今回は、コメントができるほど、考えはまとまっていませんが、ひとつ面白いブログがございますので、ご紹介しておきます(すでにご存知かも知れませんが)

かけ出し裁判官Nonの裁判取説
http://blogs.yahoo.co.jp/judge_nori/folder/186744.html?m=lc&p=8

刑事判決の紹介や民事判決の紹介を読むと、裁判官の事実認定の思考プロセスが勉強できます。


法曹の方には、ある程度一般常識的な内容なのかも知れませんが、果たして一般人がこのあたりの緻密な事実認定をできるのか、大いに疑問です。

投稿: コンプライアンス・プロフェショナル | 2007年6月 9日 (土) 20時48分

皆様、ご意見ありがとうございます。
とりわけ、当方の持論へのご批判については、真摯に受け止め、更なる意見形成の努力をしてみたいと思います。ところで、こういった議論はたいへんおもしろいと思いますので、(下)をエントリーする前に、すこし具体的な事例などを掲示してみたいと思いますので、またよろしかったらいろいろとご議論しましょう。

投稿: toshi | 2007年6月11日 (月) 01時36分

監査・会計構造の研究 佐々木隆志(一橋大学教授)著 森山書店 30~31ページ

20世紀中葉と比較して、現在は監査に際しての簿記の重要性が薄れている・・・簿記が原則として過去の企業取引を記録するためのツールであり、企業が外部との取引の際に得られる検証可能な客観的証拠によって裏付けられる存在であった。

企業会計が・・・将来のキャッシュフローの予想ならびにその財務諸表への取り込みを行うことを主目的にするようになる以上、簿記の比重は相対的に下がる。監査に際しても、検証力ある客観的証拠に基づく簿記以外のものにその根拠を求める必要が出てくる。

それは、再び「点の監査」が重要になるということである。期中における企業取引の一連の流れを捕捉し検証するという「線の監査」ではなく、一時点における企業の資産・負債の状況を確認し検証するという点の監査である。

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財務諸表監査の理論のなかで、内部統制の検証は監査人にとって重要課題でなくなりつつあることが明瞭に説明されています。

投資家の意思決定に必要な会社の将来キャッシュフロー情報の真実性こそが21世紀の会計・監査の課題であるなら、上場会社が、財務報告に係る内部統制に多大な金額と手間を費やして充実させる必要があるでしょうか?時代状況に即した企業の社会的責任から考えれば、答えは自明です。

投稿: 監査理論と事実認定 | 2007年6月12日 (火) 19時15分

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