「濫用的買収者」って何だろう?
きょうも経済産業省の事務次官さんが「ブルドック高裁決定は画期的」と賞賛されていたようであります。あの高裁決定が出た日、スティール側は「まったくの予想外の判決」とショックを隠せなかった様子でありました。スティール側のこのコメントに、溜飲を下げた方も多かったのではないかと思いますが、この「予想外の判決」というのは、ひとつ間違えますと「弁解の機会を与えられなかった裁判」ということにもなりかねません。
先日のスティールは乱用的OR濫用的?のエントリーにおきまして、unknounさんより、以下のようなコメントを頂戴し、私は「そういった立場のご意見お待ちしておりました」とコメントを返させていただきました。実は、エントリーを書きながら、unknownさんとかなり近い感覚を覚えたからであります。
先生は、本件においては、濫用的買収者であることの評価根拠事実ばかりが主張立証され、評価障害事実の主張立証が不足していた旨を述べておられますが、私としては、本件において、そもそも評価根拠事実となりうるものが主張されていないように思われます。
たとえば、裁判所は、評価根拠事実として、スティールが①経営について何のビジョンも持っていないこと、②株式を転売するつもりであること、③資産処分を視野に入れていること、等を挙げていますが、①は資本と経営の分離の観点から問題なし、②については投資家としてあたりまえのことであり(インカムゲインが少ない日本企業への投資においてキャピタルゲインを求めない投資行動はむしろ不合理だと思います)問題なし、③アセットストリッパーのような場合であればともかく、企業の資産効率を上昇させるために、非効率な余剰資産の処分をして企業価値を高めることは当然なので問題なし、という具合に、裁判所が評価根拠事実のような位置づけで挙げている事実は、実は評価根拠事実になっていないのではないかと思っております。 |
私自身の見解としましては、unknownさんが「評価根拠事実になっていないのでは」と指摘されている各事実については、一応評価根拠事実らしいものではないか、と考えております。ただ、おっしゃるように、誰がみてもそういった事実が認められれば「濫用的買収者」である・・・と判断できるものではなく、やはり「濫用的買収者」とは言えない、と判断する立場も十分成り立つのであって、明確に「濫用的買収者」であることを基礎付ける根拠事実といえるかどうかはかなり疑わしいように思います。だいいち、この高裁決定の中身を読みますと、抗告人と相手方の主張整理のところで、「抗告人はグリーンメイラーではないと言い、一方相手方は(抗告人関係者が)濫用的買収者だと主張する」と書かれてあります。このブログでかなり以前から「グリーンメイラー≠濫用的買収者?」と問題提起しておりましたが、どうもこのあたりのモヤモヤは高裁決定の中にも現れておりまして、このような書き方からしますと、抗告人と相手方そして裁判所の間におきまして「濫用的買収者とは、どういった根拠事実があれば認められるのか?」といった争点整理が行われていなかったのではないか、と推測されます。ちょっと極端な例になりますが、交通事故の運転者の過失を基礎付けるための「前方不注視」といった注意義務違反の事実をとりあげますと、そこには「居眠りをしていた」「よそ見をしていた」「携帯メールを読んでいた」などの事実が指摘されますと、概ね異論なく「前方不注視」は認められると思われます。しかしながら、「会社を食い物にしていた」という事実(これが事実といえるかどうかは問題あるかもしれませんが)については、その食い物にしていたことを基礎付ける事実がまた必要になってくるわけですが、そこでは異論なく「食い物にしていた」と評価できる事実というものを探すのはかなり困難な作業が伴うのではないでしょうか。そのあたり、当事者間での交通整理をして、こういった事実が認められれば「食い物にしている」ということになりますが、いいですか?といった争点整理の必要性があったように思えます。そのあたりをもし裁判所がとばしてしまって、争点が明確になっていないまま(たとえば、抗告人は単にグリーンメイラー性だけを否認し、相手方は濫用的買収者であることを積極的に述べている)、裁判所の法律解釈によって、何が「濫用的買収者」と評価できる事実かを独断で選定してしまって、ほらあなたは濫用的買収者ですよ、といわれてしまいますと、反論の機会も与えられないままにスティール側が「不意打ち」をくらったことになってしまったのではないか、といった疑念が生じるのも無理からぬところではあります。果たしてこういった高裁の対応が民事訴訟法の大原則である「当事者主義」からみて正しいものであるのかどうか、すこし検討を要するところではなかったかと、私もすこしばかりの疑問を抱いた次第です。ひょっとしますと、このブルドック高裁決定というのは、会社法だけの問題ではなくて、民事訴訟法とか、要件事実論など、裁判制度の根幹に関わる問題点も内包している、たいへんおもしろい決定なのかもしれません。(unknownさんのご指摘に反応しまして、思いつきのレベルでのエントリーですので、また今後の正確な分析をご参照くださいませ)
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コメント
山口先生
お久しぶりです。
あまりどちらの側も支持するものではなく、あくまで一般的に今後どうなるのか、に関心をもって本件を見守る法曹の一員として、ちょっと感想めいたことを。
まったくの憶測ですが、某ファンドは本当にTOBを成功させて買収する気があったのでしょうか?是が非でもTOBで勝ちに行く、という方針で臨んでいなかったのかもしれないなあ、と思っています。このあたりは、裁判上訴訟代理人が「プロ」として主張しておられるところとは別に、当事者が本当にどういう経済的な目的をもって一連の行動をしているか、ということを「邪推」しながら、つらつらと考えているところですので、硬い議論ではありませんが(苦笑)。
おおすぎ先生のブログでも疑問が提示されており、私もその方と同じ問題意識を基礎に持っているのですが、株主は経営の方針を持っていれば、買収ができないのか、と。
(閑話休題: 少し好き嫌いの問題も入っているのかもしれません、ライブドアの事案では、ああいって市場で買い増しをして経営方針を示さないこと、に関して疑問を感じていたことは自白しておくべきかもしれません。)
この点に関して、現在高裁の考え方にやや疑問を抱いています(最終的にどの辺りで線引きするか、もう少し考えて見たいと思っていますが、現時点では)。株主、取締役、そして業務執行者(代表取締役その他業務執行取締役または執行役)を概念上区別して考えるならば、ああいう単純な物言いを裁判所はすべきではなかったと思います。権限分配論といい、あの書き方といい、一般化しているとあまり疑問も抱かずにそのまま理由付けを受け入れてしまいそうになりますが、本質的な問題はもう少し詰めて考えておく必要があり、その意味でも、おおすぎ先生の考えも次回うかがいたい(ごめんなさい、他のブログのことを言及してしまって)と期待しています。
上記を背景として、抽象論としてはそう考えていますが、それと同時に、一般的な感覚からすれば、まともな買収者であれば、たとえ株の取得であったとしても、会社の支配権を取得する程度の大規模な買付行為をする以上は、支配または経営参加に関する計画や意図を有しているべきであるし、またそのはずである。少なくとも、そのあたりをしっかりと開示し方向性を示すことが多くの人から期待されていることは容易に理解できるでしょう。そのような一般的な「常識」からすれば、本来積極的に述べて当然であるような事項をあえて言わないのはやはり怪しいのではないか、と。そういう疑念を抱かせるアプローチだったのはたしかで、そこについてどう考えるか。もしTOBを本当に成功させたいならば、別のやり方はあったのではないか、もう少し「受けのいい」開示もあったのではないか、そんなことを分かっていながら突っ張ってTOBをしたのか、それともTOBが成立しない可能性が高いことを分かりながら、かえってその方向を強く押し出すようにしたのか、そういうことをつらつら考えていた次第です。
某ファンドとして、裁判所の判断について本当は意外感はなかったのではないか、あれは一つのポーズではないか、という見方を仮定的に考えることはできないでしょうか。外野席に座っているので、そういうことを考えていたところです。
ちょっとひねくれた見方ですが、今後もまだいろいろ議論すべき点がありますが、本件事案はかなり特殊であるともいえ、裁判所の判断の射程距離も必ずしも広くない、と捉えています。
いつも長くなってしまって、すみません。次回は、短めにしますので、お赦しを。では。
投稿: 辰のお年ご | 2007年7月14日 (土) 08時32分
いつも有益な意見をいただき、たいへん勉強になります。先週まではブルドック事件一色だったような気もいたしますが、今週は19日に例のファンドの刑事事件判決も出ますし、また別の論点がいろいろと話題になりそうです。ここのところ、証券取引法関連の話題が豊富ですね。
さて、今回のエントリーにメールでも意見を頂戴しておりまして、評価根拠事実というものは、裁判官と当事者によって争点整理するだけでは足りず、他の事件で「濫用的買収者」か否かが問題となったときにも通用する程度の普遍的な主要事実として定立されなければならない、とのことだそうであります。しかし、このたびの東京高裁決定においては、そこまで明確に「濫用的買収者」であることの主要事実(評価根拠事実)は何か、といったところまで明記されているようには思えませんし、まだまだ漠然とした事例決定だったような気もいたします。そういった意味では「裁判所の判断の射程距離もかならずしも広くない」といったご意見に通じるのかもしれません。
長いコメントは大歓迎ですので、次回はMファンド刑事事件の判決あたりのコメントをいただけますとありがたいです(笑)
投稿: toshi | 2007年7月17日 (火) 02時19分
この件は、法律しか知らないタイプの人間には正しい結論が出せません。会社法の明文の規定があるわけではないので、解釈論で、ということになるわけですが、一応筋の通った解釈論としては結論として是も非もありえます。ここで重要なのは、いかに結論が妥当であるかということです。司法試験の答案や修習生の起案であれば、論理的に筋が通ってさえいればOKということになりますが、裁判所の判断は論理的に筋が通っていることは当然として、さらに結論の妥当性が強く求められます。
この件での結論の妥当性は、ファイナンスの理屈が理解できていないと、いずれの結論が妥当であるか判断できません。ファイナンスの初歩的な知識があれば、スティールがブルドックに買収を掛けた理由は一目瞭然です。それは、ブルドックの75%という、とんでもなく過大な自己資本比率のせいです。この自己資本比率は高すぎて、到底効率的な資本構造になっているとは言えません。これを適正な水準まで下げてもらうことにより株価の大幅な上昇が見込めるのですが、ブルドックの経営陣がどういうわけかそれをしないので、スティールとしては株を買って多数派を形成することにより、経営陣に言うことを聞かせるか、聞かない場合は経営陣を入れ替えて資本構造を最適化しようとしているわけです。
上記のような、買収側の意図が理解できないために、裁判所は「濫用的買収者」と口を極めて罵っているわけです。自分の理解できないものを拒絶し徹底的に排撃するために執念を燃やす、という、太古の昔から絶えず行われてきた営みを、東京高裁のオヤジ達もやった、というだけのことですね。
投稿: unknown1 | 2007年7月20日 (金) 03時52分
このあたりは、日本の裁判構造(当事者主義)もありまして、なかなか推測でコメントすることも難しい領域です。ただ、ステークホルダー論まで高裁が持ち出しているところをみますと、unknown1さんのようなご意見が出てくるところも納得できるような気がします。結論の妥当性というものが一義的には決まらないところに「濫用的・・・」と断定されたわけですから、私自身は(せめて当事者どうしの事前協議のなかで)こういった主張を整理する機会がほしかったな、「ステークホルダー論」を持ち出すよりも、こういった「資本構造最適化といった主張への裁判所の意見」を述べてほしかったなと思います。抗告理由はかなり限定的になってしまいましたが、最高裁はなにかメッセージを残していただけるんでしょうかね?ちょっと期待しているのでありますが。
投稿: toshi | 2007年7月20日 (金) 11時56分
ファイナンスというよりコーポレートガバナンスの問題であるような気がするのですが…。
ここは会社法の領域でもあるので、そういった観点をあの高裁決定文や村上有罪判決文で微塵も感じられなかったことにショックです。
仕掛けたファンドに「やりすぎです」と(村上はインサイダーなので論外ですが)判断するのはともかく、その理由付けを投資ファンドだから・・とやってしまうと、法律解釈に疎い経済人は「やはり日本では投資は儲からん」とこちらも短略的に感じるでしょう。アービトラージは確立された投資手法ですから。
スティールの対ブルドック限り、村上限りです、っていう理由付けに無理というか偏見を感じます、一介の経済人として。
toshi様のような丁寧な解説をつけていただかないとまどろっこしいですね。
そもそもコーポレートガバナンスが未成熟であることに尽きるわけですから、出来の悪い取締役をかばうような判決文を書いていると一向に改善しないですね。
日本のコーポレートガバナンスは「アジア主要証券市場で最下位」なんですから。インドやフィリピン以下です。
投稿: katsu | 2007年7月21日 (土) 14時46分
>katsuさん
そうですね。このあたり、経済人と法律家との溝のようなものを感じます。このたびのブルドックや村上事件の裁判内容につきまして、司法謙抑主義や当事者主義、また裁判規範のハードロー的側面(そのとき、そのときの社会風潮によっての価値観に依存するというよりも、長い目で見た規範性を重視する、といったらいいのでしょうか)など、民事裁判の長い歴史のなかで培われてきた裁判の伝統のようなものが共有できませんと、どうしても「裁判は遅れている」「時間の早さについていけない」との批判を受けてしまうことになります。私も高裁判断を支持するわけではありませんが、こういった「・・・限り」といった手法も、裁判のやり方としてはアリかな・・とも思ったりしております。(このあたりはブログで解説するにはかなり限界を感じます)
投稿: toshi | 2007年7月23日 (月) 02時45分
いえいえ、実名を公表してコメントされる法律事務所代表者(つまり事業主)やその他の先生方と、サラリーマンで匿名で好きなことがいえる身分では、ブログコメントに制約があるのは仕方ないと思っております。
法律的解釈は参考にさせていただいております。
本件、村上Fの件はあちこちのマスコミでも、私と似たようなコメントがあるので、これぐらいにしたいと思っています。
投稿: katsu | 2007年7月23日 (月) 23時11分