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2007年7月26日 (木)

善玉ファンド・悪玉ファンド論

国税庁の見解(株主に対して新株が交付された時点では課税しない)も明らかにされ、ブルドックソースは24日、防衛策手続を開始した、との報道がなされております。高裁決定を受けて、スティールパートナーズが「濫用的買収者」と認定されたことで「悪玉ファンドは退場を命じられた」と評するところも多いようです。そしてまた「ブルドック決定や村上ファンド刑事判決の内容は、ファンドの投資活動に悪影響を及ぼすのではないか」との危惧もあるからでしょうか、最近は「善玉ファンド」と「悪玉ファンド」に分類して、悪玉こそ退場されるべきであって、中長期的視野において企業価値を向上させることに寄与するような「善玉ファンド」は歓迎すべきである、といった論調も目立ちます。先のブルドック事件の高裁決定が、スティールの「属性」を考慮して「濫用的買収者」にあたると判断したことは否めないわけでありますが、この「濫用的買収者か否か」といったところの判断に「買収者の属性」を重視することにつきましては、すこし疑問を感じるところでありますし、もしこういった「濫用的買収者」といった判断基準が今後もなんらかのルールになりうるものとしても、スティールが常に「濫用的・・・」に該当するものとは言えないのでは、と思ったりもしております。

(たとえ話として適切かどうかは皆様方のご判断におまかせいたしますが)離婚事件におきまして、「離婚をしたい」と考えている側は、その離婚裁判におきまして相手方をわざと怒らせるような主張を出して「婚姻を継続しがたい重大な事由」があることを根拠つけようと画策するわけであります。(もちろん、不貞行為や暴力、生活費をいれないなどの悪意による遺棄等に該当する事由が証拠によって明確に立証できる場合には、そのようなことはされないと思いますが)相手方がこれにつられてカッときて、法廷での喧嘩状態になってしまいますと、離婚をしたい側にとっては「しめしめ」と思うわけであります。そういった喧嘩を誘引させるような書面が出てきたときにも、冷静に「事実の存否のみを争う」姿勢を貫くことを勧めることが、相手方代理人にとっても重要なところであります。ところでこういった離婚事件の場合、調停委員などをしてみるとわかるのでありますが、夫も妻も、第三者としてそれぞれとお話をすると、とても常識のある「いい人」でして、どっちが悪人でどっちが善人という区分けは容易ではありません。冷静に裁判を継続した場合、結局のところ、属性というところは無視して、事実の存否によって離婚の成否、慰謝料の金額の多寡等を判断せざるをえないわけであります。

このように自然人(いわゆる生命体としての人間)に例えて考えてみましても、「いい人」と「悪い人」というのは峻別することは困難なはずでありますし、どんな人でも善悪の部分を併せ持っているのが普通だと思います。相手によっても、またその人の精神状態や経済状態によっても、「いい人」であると解釈される場合もあれば、「意地悪な人」と評価される場合もあるわけでして、その人の属性だけを捉えて絶対的な基準で「善悪」を判断することは困難ですし、またたとえ裁判官であっても、そのような判断能力は持ち合わせておりません。「なんであいつと話をすると、自分はこんなに腹が立って、傷つけるようなことばっかり言うのだろうか」と自己嫌悪に陥るようなことは、誰でも一度は経験するのではないでしょうか。またそういった場合、相手もあまりこちらにいい感情は持ち合わせていないのが通常ではないでしょうか。私は「善玉ファンド」「悪玉ファンド」という用語を用いることについては反対はしませんが、どんなファンドであれ、対象企業の取締役との相性や、ファンドの活動過程、そしてファンドに相対する対象企業の行動などによって、「善玉」にも「悪玉」にも変化しうる、つまり相対的な基準にしかならないものだと思います。つまり、スティールPがこのたび「濫用的買収者」だと認定されたことをもって、別の相対企業においても、確実に「濫用的買収者」と認定されるかといいますと、濫用的買収者かどうか、ということは相手との相関関係的判断のもとで決まるわけであり、そのまま他の事件にも妥当する、と考えるのは早計ではないでしょうか。「濫用的買収者」かどうか、といった判断は、ある対象企業からみれば「濫用的買収行為」と評価されたがゆえに、そのようなレッテルが貼られたに過ぎず、ほかの対象企業(たとえば事前警告型の防衛ルールを導入している企業)との関係からみると、「濫用的買収行為」とは評価できない場合というのも、普通に考えられるものと思います。このあたり「善玉」と「悪玉」といったファンドの属性に依存するような区別は、なんとなく誤解を生じさせるような気もいたします。ある企業と大株主である投資ファンドとが良好な信頼関係を築いている時期であれば、その企業にとりましては「善玉ファンド」かもしれませんが、業績が悪くなれば「モノ言う株主」となり、その時点では企業側からみれば「悪玉ファンド」に変化するものかもしれません。

そもそも、「濫用的買収行為」といったものは、ファンドと対象企業とのキャッチボールのなかで評価されるべき規範的な要件であって、ファンド側の属性とか、一方的な行動だけで認定できるような概念ではないように思われます。先日のエントリーでも、なにが評価根拠事実で、なにが評価障害事実になるのか、先のブルドック事件では明確になっていないし、当事者間でも合意されていなかったのではないか、と書きましたが、私はこのような双方のやりとりの経過のなかで、根拠事実や障害事実がピックアップされていくべきもののように思います。どのような一般的評価を受けているファンドであっても、そもそも日本企業を買収するにあたっては、「このようなルールに基づいて手続を実践すれば、TOBによる株主判断までこぎつけることができる」といった道筋を示すことによって、必要以上の萎縮的効果も排除することができ、また市場の活性化へのダメージにならないような最低限度の配慮にもなるのではないでしょうか。「悪玉ファンドは即退場」といったイメージで考えるのではなくて、たとえいままでは「悪玉」であったとしても、日本市場ではこのように「いい子」に振舞えば「善玉」として扱いますよ・・・といったルールを明示するほうが、行動上のインセンティブにもなりましょうし、「金融商品取引法規制下におけるファンドのあり方」について、もうすこし深い議論ができる土壌にもなると思うのですが。

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