« コンプライアンス経営はむずかしい(金融機関編) | トップページ | 企業の不祥事体質と取締役の責任(その2) »

2007年9月17日 (月)

危機管理としての「報告」と「公表」

大阪のエキスポランド内のコースターで、9月15日に事故が発生したようですが、この事故を公表せずして16日も営業を継続していた、とのことであります。(読売新聞ニュース)この件に関しまして、丸山満彦先生も自身のブログでコメントをされております。以下、引用させていただきます。

些細な事故まで報告することは、重要な事故を埋没させてしまうので、よくないとは思いますが、今回の場合は、やはり事故の件を公開し、原因を追究してから運転を再開するというような慎重な対応が必要だっと思いますが、じゃぁ、どのような場合には公表すべきで、どのような場合は公表しなくてもよいのかを決めるのは、難しいですね。。。

あの痛ましい事故につきましては、私のブログではほとんど触れませんでしたが、このたびの事故につきましては、ちょっとだけ個人的な意見を述べたいと思います。エキスポ社の取締役の方は、今回の事故発覚の後、マスコミからの質問に対して以下のように回答されておられるようです。

一方、エキスポ社の取締役は「このようなトラブルを起こし申し訳ない。けが人がなく、車両やレールの破損もなかったので、公表はしなかった。認識が甘かったかもしれない」と釈明している。朝日新聞ニュース参照)

まず読売新聞ニュースが報じたところが真実だとすると、エキスポ社は事故発生直後に、関係官庁に対して事故報告を行った、というものであります。エキスポ社側とマスコミとの間に意思の疎通があったかどうかは不明でありますが、もしエキスポ社が関係官庁への事故報告を行ったことが公表にあたるとの認識であれば、これは間違いであります。「報告義務」と「公表義務」は明らかに異なります。「報告」は法令遵守の世界の話であって、コンプライアンスの話ではありません。法令は個別の企業の事情まで斟酌して制定されたものではなく、あくまでも最低限度の遵守事項を規定したものであります。コンプライアンス経営は企業不祥事を防止するために、個別企業の経営環境に応じて、どう対応すべきか、といったことまで検討することを含むものであります。したがいまして、エキスポ社のように、つい先日たいへんな事故を発生せしめ、「安全宣言」を新たに謳った企業としては、「報告」とは別に、「事故の公表」をすることがまさにコンプライアンス経営の具体化であります。「報告義務」は(行政目的を達成するために)外の世界から強要されるものかもしれませんが、「公表義務」はまさに企業の自律作用から生まれてくるものであります。

ただ、丸山先生のご指摘のとおり、些細な事故まで公表しなければならないのか?といったあたりは当然、企業にとっての悩ましい問題であろうかと思います。ただ、先日の事故直後ということもあり、エキスポ社という個別事情にかんがみるならば、コースター事故に直結する事故もしくは、原因は不明だが事故に直結するおそれのある事故につきましては、公表すべきでしょうし、公表基準のようなものを策定しておく必要があると思われます。もちろん、今回の事故につきましても、私は公表すべきであったと考えております。些細な事故につきましても、発生ごとに公表するのではなく「ヒヤリ・ハット」事例集として、一年ごとにまとめて類型的に公表する必要があります。そうすることによって、実際に人身事故が発生したような場合に、即時の事実認定と原因究明が可能となりますので、まさに危機管理の一環であります。

そこで次に朝日新聞ニュースにおける取締役の方の発言でありますが、これは「人身事故が発生してから公表すればいい」とのエキスポ社としての認識を開陳してしまったというほかなく、先日の事故の教訓が全く生かされていないのではないか・・・と悲しい気分になってしまいます。あのような事故を発生させてしまった企業としては、遊園地へ来られるお客さまの信頼を回復させなければならないにもかかわらず、逆にふたたび信用を落としてしまう結果になってしまうのではないでしょうか。こういった回答内容ですと、おそらく「安全宣言」は公表していたとしても、具体的な再発防止策が検討されていなかったのではないかと推測いたします。もし本気で検討されていたのであれば、役員間において「どういった場合に事故を公表すべきか」といった議論がされているはずだからであります。そもそも「公表措置をとる」ことのメリットとしましては、①公表することで企業自身が再発防止策等のルール遵守に緊張感を増すこと、②一般消費者等にこれ以上の被害が拡大しないよう、被害拡大を防止する役目を果たすこと、③社長自身のコンプライアンス重視の経営姿勢が、現場従業員に至るまで「本気であること」が理解することができること、④事実関係を自社が速やかに確認するクセがつくことなどが掲げられます。こういった公表措置のもつ機能からみますと、エキスポ社としましては、事故発生後直ちに新聞広報もしくは自社HP等におきまして広報すべきであったといえます。

たしかに「そんな些細なことまで・・・」といった意見が出てくるかもしれませんが、そんな些細なことまで公表する姿勢こそ、前回の事故を重視している姿が確認でき、信頼を回復できる可能性も高まるように思います。

|

« コンプライアンス経営はむずかしい(金融機関編) | トップページ | 企業の不祥事体質と取締役の責任(その2) »

コメント

会社としての、対応は良くなかったと思います。

1)会社と申しましたが、独立行政法人日本万国博覧会記念機構とエキスポランドを経営している民間会社の2つの法人です。
2)「公表」について言えば、些細かどうかは、同じことでも、時代により変化するのであり、5月にジェットコースターで死亡事故が起こっていることからして、判断は必然的に出たはずです。「園の入場入口」にお詫び文を掲げることを含め、適切な公表をすべきでした。もし、実施しており、報道されていないだけであれば、ごめんなさいですが。
3)「報告」については、5月に事故が起こったこともあり、法令によるもののみならず、吹田市との間で、書面となっているかどうかは別にしても、連絡方法の取り決めがあったと私は推定します。ジェットコースターが、停車せずに人を乗せたまま、もう一周してしまったのですから。私は、改めて、5月に自分が書いたブログを読んだのですが、ジェットコースターとは車体にはブレーキが備わっていない乗り物です。
http://aruconsultant.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_fc7c.html

投稿: ある経営コンサルタント | 2007年9月17日 (月) 10時38分

ごぶさたしております。先生は10月12日のオフィサーフォーラムにはお越しになられるのでしょうか?ひさしぶりにお会いできればと思っております。

同機種を設置している姫路セントラルパークとスペイン村(こちはら近鉄系列ですよね)の会見報告をみましたが、どちらもこういった危機は当然発生することを予想しておられるようで、対応方法はそれぞれ若干ちがいますが、的確な措置を回答されていました。リスク管理という意味ではどうだったんでしょうかね?

例の風神雷神の事故のときも、直後に三井グリーンランドが自社のメンテナンス状況を的確に回答しており、ずいぶんとエキスポ社とは違うんだなぁと感じましたが、構造的に管理状況に欠陥があるのではないでしょうか。この「おろち」だけを1ヶ月間稼動停止とするようですが、この対応自体がまったくコンプライアンスの欠如だと思いますが。

投稿: halcome2005 | 2007年9月17日 (月) 11時24分

ちょっと穿った見方かもしれませんが・・・。

本件を危機管理の問題として見たとき、決定的にまずいのは、
①現に「被害者」(=乗客)がいる訳だから、人の口に戸は建てられず、従って早晩露見する(報道される)ことは明らかなのに、それに先んじていち早く自ら公表しなかったこと、
②発覚後のコメント(「怪我人が出なかったから・・・云々」「緊急性がないと考え・・・云々」)がいかにも拙劣で、更に墓穴を掘ったこと、
ではないかと思います。

これらは、表裏を成すものですが、通底するのは、余りにも世間の風向きに対し鈍感すぎるということです。この会社の幹部は、賞味期限切れ問題で、実被害(食中毒など)がないにも関わらず、世間から指弾を浴びた食品会社の事件をご存知ないのでしょうか。 奇跡的に死傷者ゼロであったものの、あわや大惨事であった航空機の爆発炎上事故を対岸の火事としてしか眺めていなかったのでしょうか。 あるいは、自分のところの事故の”後始末”に追われすぎて、世の中の出来事や世間の風向きに無頓着になってしまっていたのでしょうか。

本件に関して言えば、「公表基準」を云々するまでもない、明々白々の事例かと思います。

「公表」問題以外で、不思議なのは、
1)会社側は、事故直後、乗客に対しどう説明したのでしょうか。乗客は皆納得したのでしょうか(相当な恐怖心を感じた乗客もいると思うのですが)。その場で大騒ぎにならなかったのでしょうか。もしかしたら、その場は簡単に収まってしまったんでしょうか(とすれば、会社が事態を過少評価したとしても、ある程度致し方ないかも)。
2)二周目に入った時点で即座に緊急停止させるという方法もあったようですが、なぜこれをしなかったのでしょうか。そしてその判断に対する検証は行われているのでしょうか。人命に関わる問題ですので、「危機管理」という意味では、こちらの方が重要だと思うのですが。
3)当日中の市役所への連絡については、休日ということもあり「迷惑をかけたくない」と遠慮した雰囲気が感じられます(勿論、事の重大性に関する感度の鈍さが前提としてあるのですが)。とすれば、民間事業者と監督官庁とのある種の風通しの悪さとか、敷居の高さとかがあるんじゃないかと心配です。本件、もし仮に会社側が、携帯電話で市役所の担当者に緊急連絡をしていたら、何かが変わっていたかというと、判りませんよね(少なくとも、市側から「即時報告があれば、こうしていた。」といったコメントがあったとの報道はないようです)。

会社側としては、漸く営業再開にこぎつけたばかりだし、物販・飲食店業者への休業補償もしなければいけない(?)でしょうし、掻き入れ時の三連休初日(今後も三連休続出)でもあるし、何としても「ちょっとした事故」程度(と信じたこと)にして、営業に支障が出ないようにしたかったんでしょうねぇ。

投稿: 監査役サポーター | 2007年9月18日 (火) 01時17分

エキスポランドで事故が起こったのとは異なる機種とはいえ、わざわざ
ジェットコースターに乗ろうというお客の神経が理解できないのですが
それは個人的な感想として、
エキスポ社が経営的に追い詰められていることは想像に難くありません。

ああいう事故があったんですから、事故対応にしてもお客への
謝罪にしてもマスコミへの連絡にしても過剰なぐらいの対応があっても
不思議はないと思うのですが、そういう対応がなかった?ということは
運営者の感度がよほど鈍っていると考えざるを得ません。
亡くなられたかたがいらっしゃるのでこういう表現はいけないのでしょうけど
「災い転じて福となす」という必死さがないと…。

あと、おそらくまだこれからなのでしょうか、その被害者のご遺族との
補償交渉を考えても、エキスポ社の管理体制の杜撰さがより強調される
今回のような対応は企業の損得を考えても疑問です。

このままでは、関西から遊園地というものがまたひとつ消えてしまう日も
そう遠くないような気がします。

投稿: 機野 | 2007年9月18日 (火) 10時52分

みなさま、ご意見ありがとうございます。(個別のご意見については、また別途返答させていただきます)
ところで、本日の各新聞報道をみますと、事故対象である「おろち」の製造社も立会いのもとで実験したところ、原因が究明できなかった、とあります。そして、どの新聞も緊急停止に関する対応と「安全ベルト装着」に関するマニュアル違反の管理方法が平然と行われていた・・・と指摘されています。若干、論点のすりかえではないか・・・とも思いますが、先日エントリーしました「やぶへびコンプライアンス」そのものだと思います。重大な事故に関する責任問題は不明瞭なのですが(つまり製造社の責任か、運営管理上の責任か)、運営管理の周辺事情になにか問題があれば、それが大きく採り上げられる、といったことであたかも世間的には「重大な事故の全責任があった」と評価されてしまうリスクであります。対応を間違えますと、「責任逃れ」といわれたり、さらに細かいところまで詮索されて、あらたな法令違反の事実が報道される、というような。これ、どこの企業も抱える大きなリスクだと思うんです。
不祥事リスクを考えるうえで、大きな課題だと思います。

投稿: toshi | 2007年9月18日 (火) 14時13分

①マニュアルがなかった場合は、そのこと自体が非難され、
②マニュアルがあっても、そのとおりに運用されていなかった場合は、そのことが問題とされ、
③マニュアルがあり、そのとおりに運用されていたにも関わらず、事故・トラブルが発生した場合は、マニュアルの適正さに疑問が提起される。

この発想の中には、個々のニンゲンの(潜在的にもせよ)持つ能力、熱意、創意に対する信頼とか畏敬の念はまるで感じられません。人間性無視の発想とすら思えます。
(山口先生が以前紹介されていた、H氏の「まずい学・・・」という本もそういう雰囲気が色濃く漂っていて、私は気分が滅入り、あの小さな新書が未だに読み通せずにいます。)

完璧なマニュアルとそれに完璧に従うニンゲンばかりであれば、事故や不祥事は完全に防止できるんでしょうか。

個々のニンゲンが大事にされる、重んじられる、そういう風土が重要ではないんでしょうかね、不祥事防止には(にも)。・・・「風が吹けば」式のリモートな話になってしまい、申し訳ございません。

投稿: 監査役サポーター | 2007年9月18日 (火) 22時33分

ご無沙汰しております。

今回は、個別の案件へのコメントではなく、全て一般論としてコメントさせていただきます。

公表の次元の考え方の相違によるのではないでしょうか。

マスコミやHP上での事実関係の告知までしてはじめて「公表」というのであれば、全て些細なことまで「公表」を求めることは企業側にはかなり酷なのではないでしょうか。
・2次被害の発生の可能性がある場合
・利用者等の生命・身体に影響がある場合
・事故や事件が発生し、利用者等が死傷した場合
・刑事または行政の処分を受けた場合
等をベースに、社会的に影響が大きいと判断できる場合は「公表」が必要という判断になるかと思います。

通常は、当該対象者等へのお詫びや対応(個別対応)+利用者等への告知(お詫びを含む)という形の処理が多いのではないでしょうか。

「公表」をシビアに要求するのは、プロセスや自浄作用を評価せず、「結果」のみで、重箱の隅をつつくようなマスメディアを中心とする社会情勢
の中では、誰しもが、公表を躊躇するのは、人間心理としては十分理解ができるところです。以前、イーホームズの件でも、その内部告発をどのように評価すべきかの議論がありましたが、そういった企業側の努力を一定程度評価する社会環境の整備が求められるかと思います。
 失敗すれば、あるいは結果が悪ければ徹底的に糾弾される上司には、部下は何も報告したくなるのは当然ではないでしょうか。あるいは、何かまずいことを公表すれば、徹底的に企業の体質を批判される企業で内部告発は誰もしないのではないでしょうか。


投稿: コンプライアンス・プロフェショナル | 2007年9月19日 (水) 07時28分

監査役サポーターの仰せのこと、心に染み入るようでございます。
こういう“常識論”がプロの人間であればあるほど欠けてしまっている
ような気がします。

「マニュアルを見るな、ひとを見よ」

ということであるべきなのでしょうね。

投稿: 機野 | 2007年9月19日 (水) 09時25分

私は、失礼ながら・・・

>①マニュアルがなかった場合は、そのこと自体が非難され、
>②マニュアルがあっても、そのとおりに運用されていなかった場合は、>そのことが問題とされ、
>③マニュアルがあり、そのとおりに運用されていたにも関わらず、事>>故・トラブルが発生した場合は、マニュアルの適正さに疑問が提起され>る。

この部分は全く問題があるとは思いません。マニュアルを普形式的かつ絶対的なものと考えるから、そこに非人間的な発想になるのではないかと思います。

そもそも、マニュアルに盛り込まれている物こそ、ニンゲンの(潜在的にもせよ)持つ能力、熱意、創意であり、それこそ「人間の英知」の現われではないでしょうか。
形はどうあれ、まさに「ニンゲン」の血と汗と涙により培われた経験と直面する問題に対するノウハウを書面化し、伝承されてこそ、人間文化の発展があるのではないでしょうか。

 もともと、マニュアルは、発展のための手段でしか無いのではないでしょうか。あくまで目的は、人が発展し、成長していくことにあるではないでしょうか。
 マニュアル主義の弊害が指摘されますが、例えば接客の基本や業界のしきたり、事故に繋がりかねない行為の禁止など、それらがマニュアルに盛り込まれることで、全くの初心者や未経験者が、他人の経験や知識を借りながら、一定の知識・スキルを身につけることが可能です。コンパクトにまとまったマニュアルを新人研修等で活用する企業もあるように、全体像の把握や最低限のレベルの知識やスキルを一定期間に習得するのに、マニュアルは効果的であることは否めません。マニュアルに縛られるのは問題ですし、それは人間性の否定でしかありませんが、学校の勉強に教科書があり、知識の習得に各種書物があるように、マニュアルは、人間のスキルや知識・経験を習得・向上させるための基本ツールと捉えれば、それこそ人間の成長のための糧になるものではないでしょうか。

マニュアルであれ、何であれ問題視することは、成長へのステップであり、また批判・非難も視野等の拡大の糧です。それらを否定しては、それこそ人間の成長は有り得ないし、工夫の余地も創意もありません。現状否定があるからこそ、工夫や創意が生まれてくるのではないでしょうか。

マニュアルが問題なのではなく、それに縛られ、また使いこなせない人間こそが問題なのではないでしょうか。もちろん、盲目的にマニュアルの有無や内容のみを批判するマスコミ等の姿勢は、そもそも、上記のようなマニュアルの意義すら理解できていない、本末転倒の視点だとは思いますが・・・。

投稿: コンプロ | 2007年9月19日 (水) 10時22分

言い換えますとね、

「罪を憎んで人を憎まず」

と申し上げると、当たらずとも遠からずだと思います。

いまは、ともすれば、微に入り細に入り調べるだけ調べて
ことさら、ひとを罪に問おうとする傾向があるように思います。

他方、マニュアルが軽視されている例も枚挙に暇がありません。

(広い意味での)法令遵守の徹底を図りつつ、同時に
(最近あまりポジティヴに使われなくなりましたが)関係者の人権は護る
ということではないでしょうか。
また、マニュアルは最終的には組織と構成員を利する道具である、
という認識を深めるということだと思います。

投稿: 機野 | 2007年9月19日 (水) 15時17分

熱のこもったご意見、ありがとうございます。(コンプロさん、おひさしぶりです)

(監査役サポーターさん曰く)
完璧なマニュアルとそれに完璧に従うニンゲンばかりであれば、事故や不祥事は完全に防止できるんでしょうか。

(機野さん曰く)
広い意味での)法令遵守の徹底を図りつつ、同時に
(最近あまりポジティヴに使われなくなりましたが)関係者の人権は護る
ということではないでしょうか。


じつはこのあたりが21日の私のセミナーの主題だったりします。
また講演終了後にでも、このブログでも議論してみたいところです。
できるだけ企業実務家の方の視線から検討してみたいです。

投稿: toshi | 2007年9月20日 (木) 01時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 危機管理としての「報告」と「公表」:

« コンプライアンス経営はむずかしい(金融機関編) | トップページ | 企業の不祥事体質と取締役の責任(その2) »