野村證券インサイダー取引:法人責任を否定するのはまずいのでは?
ふたつ前のエントリーにおきまして、買収防衛策導入時に株主として是非聞いておきたいことをアップしておりますが、ズバリの回答が出そうな裁判(仮処分命令申立事件)が始まりそうですね。(4月23日付け原弘産リリース「日本ハウズイング株式会社の株主名簿閲覧謄写仮処分命令申立事件について」)少し長いですが、仮処分命令申立書がズバリそのまま掲載されております。事前警告型の買収防衛策の適法性を裁判所がどのように考えているか、この仮処分の判断過程において少しだけでも垣間見えてくるんじゃないかと期待をしております。私は月曜日のエントリーで書きましたとおり、この裁判の債権者側のご主張とほぼ同意見でありますので、事前警告型のライツプランが「勝てる防衛策」であるためには、すくなくとも同業他社によるTOBが前提となるケースでは、競争関係にあることを理由とした株主名簿の閲覧拒否は「すべきではない」ではなく「できない」と考えるのでありますが、さて債務者側はどのような反論をして、また裁判所はどのように判断するのでしょうか。今後の展開が非常に注目されるところであります。(ごあいさつ、ここまで)
(さて、ここからは野村證券インサイダー事件の続きでありますが)昨日のエントリーでは「社員のインサイダー取引を防止するのは内部統制の限界ではないか」といった趣旨のことを書きましたが、今朝の日経新聞(4月23日)を読みますと、野村インサイダー事件にあたり金融庁が「法人の責任」に関する調査を開始しており、行政処分に発展する可能性もある、とされております。これに対して野村側は「あくまでも個人の責任」と公表しておられるようで、メロさんがコメントされているとおり、行政処分を受けることをなんとか回避される意図があるのかもしれませんね。いずれにしましても、今回の事件が元社員によって社内調査も奏功しないほどに巧妙な手法によってなされたものであり、果たして野村證券においてこれを阻止できなかった法人としての責任の有無に関心が集まっているようであります。
しかし、昨日のエントリーで述べましたとおり、野村證券におけるこのたびのインサイダー問題が内部統制の限界事例であり、法人としての責任を問えないとなりましても、私は元社員らの刑事事件だけでは済まないように思います。とくに企業情報が集まるところで「会社としては止めることができない」情報漏えいが発生するわけですから、そうなりますと情報を受領した本人によるインサイダー取引問題だけでなく、利益相反関係にある相手方企業や関連企業にも情報が「筒抜け」になる可能性がありますよね。そのような事態が現実化すると、インサイダーどころの話ではなく、顧客企業に対して大きな損害を与えることになるわけでして、結局のところもし、今回の事件が元社員らによる「個人的な行為」で済んでしまった場合、「付随業務」として投資銀行業務などを行う証券会社全体の「利益相反取引の禁止」というガバナンスと内部管理体制構築の問題に発展するのではないでしょうか?少なくともシステムの構築によって大きなリスクを回避できるのであれば、できるだけのことをやって顧客の信頼回復に努める必要が出てくることになるのではないかと。
約2年ほど前に「阪神・阪急統合とコーポレートガバナンス」なるエントリーで、当時阪神電鉄のM&Aアドバイザーを務めていた大和證券SMBCが、阪急電鉄側のTOBにおける公開買付代理人を兼任されていたことについて疑問を呈しておりましたが、ある方よりメールにて「証券会社はそれほど利益相反ということについて関心はない」とのご意見を頂戴しておりました。しかし2006年10月には、日経BIZの佐山先生のコラムにて「認識うすいM&Aにおける利益相反問題」なるご意見を拝読し、やはり証券業界における利益相反問題については、一応検討されるべき課題なのだと認識したような次第であります。このたびのような情報漏えいを証券会社が自律的作用によって防止しえないものであるならば、利益相反問題については企業の信用を一気に落としてしまうような重大なリスクを抱えることになるわけでして、そこまで事件が発展してしまいますと、おそらく証券会社の仲介機能以外の営業利益に大きな影響が出るのではないでしょうか。
ということで、証券会社の今後の営業のことをかんがみますと、このたびのインサイダー事件につきましては、組織的ミスを認めたうえで、今後の内部統制システムの改善策を提案すること(および行政処分を甘受すること)で信用回復をはかっていくことがベストの対応ではなかろうかと思われますが、いかがでしょうか。
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コメント
私も、野村證券インサイダー事件については、toshiさんと同じ意見で、企業の信用こそが、その企業にとって極めて価値の高い財産である。野村證券として保有しておられるその価値を守る方法は、「組織的ミスを認めたうえで、今後の内部統制システムの改善策を提案すること」と思います。
人は、常に、誘惑に囲まれているのだとの前提で、企業はコンプライアンスもガバナンスも設計し、実践し、改良していくのだと考えます。内部統制で書類を作るより費用もかかるし大変だと思います。また、社員についても、終身雇用の時代とは違ってきています。現在の自社の状態に即して、個人が不正を働こうとしても防止機能が働く制度を、作らねばならず大変ですが、それが会社と経営者の努めであり、そうしないと大競争を勝ち抜けないのではと思いました。
投稿: ある経営コンサルタント | 2008年4月24日 (木) 11時16分
toshi先生
おひさしぶりです。コメントの「ごあいさつ」のほうなんですけど、私もこの仮処分命令申立事件はとても関心をもっています。最初はここまで行かないのではないかと思って、双方の開示情報を眺めていたのですが、世間で注目される論点が東京地裁8部で争われるようになったんですね。
ただ、私はtoshi先生の意見とは異なり、会社法125条固有の論点によって日本ハウズイング側が反論できる余地はあると思っていますが、今後の反論等を見守りたいところです。(すいません、エントリーの本旨と関係のないコメントになってしまいました)
投稿: あすくる | 2008年4月24日 (木) 11時32分
Toshi先生
私としては、会社として内部管理(統制)の「限界」より更なる改善を図っていく余地がないか熟慮すべきことと、「行政処分の甘受」は別物であると考えています。
本件に限りませんが、仮に内部管理に不備があったとして(もちろん事件が発生している以上、通常推定は働くのですが)、その改善を自主的な取組みに委ねるべきか、それとも業務改善命令など行政処分をもってすることが適切な事案なのか、当局としては調査のうえ慎重に判断するのだと認識していますし、そのことは行政の透明性を確保する上での要諦だと思います。
http://www.fsa.go.jp/common/law/guide/syobun.html
報道や世論をないがしろには出来ない一方、客観的に見て処分が公正性を欠く、ましてや本当は統制の「限界」事案であったのに事件発生という「結果責任」を行政処分で問うようなこととなっては、萎縮効果のみならず、コンプライアンスなど内部管理に携わる方々の「諦め」や「無気力感」、「士気の低下」等といった大きな副作用が発生しかねません。
企業が社会に対して内部統制へのさらなる取組みをコミットして信頼回復につながることともに、不備(もしあれば)の程度に応じた当局対応にも期待するところです。
いずれにせよ、企業・監督当局の双方が社会に対する説明責任を負っているのではと思います。
投稿: 行方 | 2008年4月25日 (金) 00時00分
御無沙汰しております。
行方先生、日弁連で御講演されるんですね。しかも内部統制との関係で得すね。企業の社会的責任ガイドライン、文字ばかりで大変ですが、勉強させていただきます。
さて、本題についてですが、私も行方先生の意見に賛成です。
>>報道や世論をないがしろには出来ない一方、客観的に見て処分が公正性を欠く、ましてや本当は統制の「限界」事案であったのに事件発生という「結果責任」を行政処分で問うようなこととなっては、萎縮効果のみならず、コンプライアンスなど内部管理に携わる方々の「諦め」や「無気力感」、「士気の低下」等といった大きな副作用が発生しかねません。
という視点は、非常に重要かと思います。内部管理(内部統制)については、「法的責任」としての内部統制構築義務と、「経営責任」としての内部統制構築義務とは区別して考えるべきではないかと思います。そして、前者については、行政処分という形での制裁もあってしかるべきですが、後者については、市場や消費者からの取引を通じた審判を受けて、自浄作用を働かせていくべきだと思います。
そもそもは、主要な3つ(ないし4つ)の目的を達成するために、「企業内のすべての者によって遂行されるプロセス」であるはずの内部統制が、いつも不祥事発生と言う「結果」にばかり焦点が当てられるのは、非常に残念に思います。
最近は行政処分が多発される傾向にある上、何でもかんでも「結果責任」的発想が非常に強くなっていますが、内部統制というのは、本来企業における「進歩」「成長」のプロセス、取組であり、その取組やプロセスを見ずして結果だけで行政処分等を下すというのは筋が違うのではないかと思います。
人間が生まれてから小学校、中学校という義務教育の段階を経て成長していくのと同様、企業、いいかえれば法「人」にもそういう進歩、成長を求めたのが内部統制ではないでしょうか。問題点を自ら発見し、克服していく過程、取組が最も重要なはずであり、人の育成や教育と通づる部分もあるのではないかと思います。
子どもが成長する中で、様々なミスや事故を起こします。そのミスや事故を捕らえて、一々、警察が補導したり退学にしたりはしないように、企業においてもすぐに「結果責任」を問わず、自らの成長に委ねるという配慮があってもいいのかと思います。子どもが、親や地域住民、先生の指導や叱りを受けながら成長していくように、企業も消費者(先生)や株主(親)の指導を受けながら成長していくのが本来の内部統制の理念に近いのではないかと思います。
「結果責任」を問うとなると行方先生が萎縮効果の懸念を指摘しておりましたが、それ以外にも、「結果責任」を回避すべくガチガチの定型的、形式的な基準に合わせた内部統制構築が行われることになると思います。こうなると、それこそ文書化だ、IT統制だと何でも過剰過剰なシステム、仕組み作りが要求されてきて、社員がその作業に忙殺される事態になりかねないと思います。このような過剰対応の弊害や苦労を一番知っているのは、ここにいらっしゃる皆さんだと思います。このような事態に陥らせないためにも、安易に「結果責任」を問うような行政処分の発動は控えてもらいたいと思います(もちろん、今後野村證券の社内体制が明らかになるにつれて、やはり結果よりもプロセス、仕組みに問題があるということであれば、「法的責任」を問うことは必要かと思いますので、現時点での見解ですが)が、如何でしょうか?
本題とは観点がずれたかと思いますが、制度としての内部統制制度が出来上がった以上、次は運用が重要になってくるわけで、その運用の中でも、特に運用初期は、今後の方向性を決める重要な時期ですので、制度構築段階での「過剰対応」が、更に運用段階での「過剰対応」にならないように願いたい次第です。
投稿: コンプロ | 2008年4月25日 (金) 11時20分
皆様、熱いコメントありがとうございます。(勉強になります)
本エントリーはいわば野村證券側が一生懸命に行政処分を回避しようとされていることへの「アンチテーゼ」的な発想に基づくものとご理解ください。行政処分がペナルティではなく、よりよい市場型資本主義の実現を目指すために発令されることは承知しているのですが、内部管理体制の不備ということで改善が困難だとしますと、やはりどこかで「しめし」をつけないと世間が納得しないのでは(金融庁も納得しないのでは)といった趣旨をくみとっていただければありがたいです。
今回の件について、内部管理体制の不備をどこに求めるのか・・・ということになりますと、リスクがどこにあるとみるのか、そのリスクを低減するための統制要点をどこにおくべきか、かなり議論する必要があるように思いますが、これが社内の調査によって発覚した、ということであればまだしも、監視委員会による調査先行型ということですと、ちょっと私にもまだ現時点ではそのあたりの特定が難しい状況です。
先生方のご意見等を参考に、また少し情報が入り次第、(シニカルではない建設的な)議論をしてみたいと思います。
投稿: toshi | 2008年4月26日 (土) 02時18分
他国の例が必ずしも正しいわけではありませんが、
アメリカで同じような事件が発覚した場合
どういう「処理」が行われているのでしょう?
ご存知の方がいらっしゃればお教えくださいませ。
「組織ぐるみ」って英語にあるのかな?(笑)
投稿: 機野 | 2008年4月28日 (月) 09時19分