わが国に経営判断原則は存在していたのか(商事法務論文)
旬刊商事法務の最新号(1858号)におきまして、東北大学の森田准教授の「わが国に経営判断原則は存在していたのか」なる論文が掲載されております。私的には非常に刺激的な内容だと感じました。「解釈論・立法論を展開する前にはまず、われわれが現在どのような場所に立っているのかを確認しておく必要がある。・・・(中略)しかるに経営判断原則をめぐっては、そのような現状確認作業が十分に行われてこなかったように見受けられる」として、「経営判断原則」をめぐる神話を解体してみせる森田准教授の論稿は、私のような普通の法律家でも最後までドキドキしながら読めるほどに「考えの筋道」がわかりやすく、秀逸です。この森田先生の論文を拝読しての外野からの印象は、「我が国における経営判断原則は、商法、民法、民事訴訟法すべての専門家の叡智をもって(垣根をはらって)構築されるべきではないか?」というものであります。
たとえば森田先生は「医療行為と経営判断」というテーマで、医師も経営者もどちらも専門家であるにもかかわらず、どうして医師は敗訴率が高く、経営者は「経営判断原則」で守られるのか?という点を善管注意義務のレベル(水準)の問題と、裁量の幅の問題に分けて検討することで、解明しようとされております。そして敗訴率の差は、後者である「裁量の幅の問題」として、医療行為のほうが「最適な行為内容を特定しやすいからだ」と結論付けておられます。たしかに最適な医療内容が(鑑定医による鑑定書等をもって)特定しやすいという面もあるかとは思いますが、私の場合はむしろ債務の性質によることのほうが大きいのではないかと思料いたします。つまり、医療行為についてはひん死の交通事故被害者の救急医療と、「あなたもパフュームの『のっち』になれる!」と広告をうって行う美容整形手術とでは、おなじ医療行為(手段債務)といっても裁判所では大きく扱いが異なります。当然のことながら前者は「そのときの最善を尽くすこと」で足りるわけですが、後者はほとんど「結果責任」(結果債務)に近いものとして扱われるのでありまして、たとえば施術だけでなく術前における高度の「説明義務」も課されるからこそ敗訴率が高くなるわけであります。かなり多くの医療過誤訴訟に関与した経験からしますと、医師の敗訴率の高さは、この医療行為に付随する(という言い方自体がもはや古いといわれるかもしれませんが)説明義務によるところが多いわけです。これは、まともに医療行為で勝負すると敗訴率が高くなるために、なんとか医療行為に付随するところで過失を客観化しようとしてきた患者側弁護士の長年の汗と涙の功績によるものであります。ですから、私的には、ちょっと森田先生のご見解とは異なるところがあるのかもしれません。
むしろ、医療過誤訴訟の流れから経営判断原則を考えますと、経営者に要求される高度の経営判断の巧拙によって原告側が勝負しようとすると、かなり敗訴可能性が高くなるからこそ、たとえば判断過程(デュープロセス)で勝負しようとするのは(裁判上では)自然の流れではないかと思われます。ただ、どういった判断過程を経るのであれば、後だしジャンケンではない本当の専門家責任を問えるのか?というあたりは、「手段債務」としての善管注意義務違反を基礎付ける手続(プロセス)とはどういったものを指すのか、「過失の客観化」などの議論も踏まえ、債権法に詳しい民法学者の方々のご意見も拝聴しながら検討する必要があるのではないでしょうか。また、最近のMSCB発行の議論などにもみられるように、永続的な事業活動を本旨とする企業のリスクテイクの在り方や、対象企業は成長過程のどこに位置しているのか、といった「リスク管理」との関連性においても、経営判断の中身が異なってくることもあるのではないか、と感じております。
また、「法令違反行為と経営判断原則」というテーマで、「なぜ法令違反行為には経営判断原則は適用されないのか」という一般にアプリオリに肯定されている(しかしながら、どうもしっくりと理解されていない)問題への解明を試みておられ、これも説得力のある展開がなされております。ルールという形式の法規範がある以上、裁判所の活動という観点からすれば善管注意義務の裁量の幅が縮減し、債務不履行の認定作業が簡略化する、といった、これも裁量の幅の問題として説明がつくものとされているようであります。(私が読ませていただいたかぎりではそのように理解いたしました)ただ、ここでも若干の疑問が湧いてまいります。ここで問題とされている「法令違反」というのは、一般的な個別法違反(たとえば粉飾決算など)を指しておられるのでしょうね。しかしながら、たとえば有価証券報告書虚偽記載という法令違反の場合、故意でやってしまえば刑事罰ですが、過失でやってしまった場合には行政処分(課徴金)の対象になると思われます。そうしますと、故意でやった場合には善管注意義務違反=法令違反行為ですが、過失でやった場合には、善管注意義務違反≠法令違反行為であり、善管注意義務違反行為は、結果的に法令違反行為をさせてしまった前提となる調査義務違反、といったことになるのではないでしょうか。つまり法令違反行為が認められる場合でも、そのことからかならずしも裁量の幅の縮減とは結び付かないのではないか?といった疑問が出てくるように思われます。このあたりは、やはり当事者主義的な民事訴訟体系のなかで、債務不履行(不完全履行)における要件論の原則に立ち返り、「任務懈怠」と故意・過失との主張・立証責任の分担(およびそれに伴って、取締役サイドの経営判断原則にまつわる反論が積極否認になるのか、それとも抗弁事由となるのか、任務懈怠という要件は評価根拠事実と評価障害事実の出しあいとして構成すべきなのか)といった民事訴訟的(もしくは要件事実論的)な整理がまずあって、そのうえでの実体法的な整理が必要になるのではないかと思います。(たしかこのあたりは、東京地裁民事8部の裁判官の方々が執筆されていらっしゃる本でも、いまだ決着をみない議論が展開されていたかと記憶しております)ということで、ここでもやはり昨年の司法試験問題ではございませんが、経営判断原則と司法判断との在り方を解明するためには、商法と民法(要件事実論)、民事訴訟法(当事者の実質的な公平)との整合的な理解がどうしても必要な分野ではないのかなぁ・・・というのが私の印象であります。
いずれにしましても、米国のビジネスジャッジメントルールと日本の裁判制度のもとで経営判断原則とは性質が違う(らしい)ということは私のようなものでも理解できるのでありますが、このあたりは(森田先生も指摘されておられるように)経営者へのコントロールを司法制度でフォローするのか、投資家判断に委ねるべきなのか、というところの差ではないかなぁ、と思ったりしております。株主自治がタイムリーに経営陣の顔ぶれに反映されうる米国では、経営判断の中身まで裁判所が関与する必要はないけれども、そういった風潮に欠ける日本の場合には、裁判所が後見的判断を下す・・・というのもありなのかなぁといったイメージです。そうであれば、もしこの先、投資家によるガバナンスとか、社外取締役制度の導入義務付けといった時代背景となれば、漸次この経営判断原則の適用方法にも裁判所で変化の兆しがみえるのかもしれません。(勝手な推測にすぎませんが・・・)
もうひとつ森田先生の論文における「整理回収機構による責任追及訴訟」に関わるテーマにつきましても、これまた何度も住専側代理人としてRCC相手に裁判をやらせていただいた弁護士としては書きたいことが山ほどございますが、これはまた別の機会にさせていただきます。
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コメント
磯崎さんのブログにも同論文に対する記事がありましたね。
やはり実務家の方々からするとインパクトのある記事なんですねえ。
投稿: m.n | 2009年3月 4日 (水) 13時02分
>m.nさん、こんばんは。さすが磯崎さんのは切り口が斬新でおもしろいですね。
たしか日本取締役協会からも「経営判断原則」に関する本が(昨年か一昨年に)出版されていましたよね。やはり実務家にとっては、裁判規範としてだけでなく、行為規範としても関心の高いところですね。
なお、同志社大学の伊藤先生のブログでも、この論文に対するご意見が出されております。私もこの刺激に触発されてしまいました。
投稿: toshi | 2009年3月 5日 (木) 01時36分
“わが国における”経営判断原則の素性を問う着眼点は不思議と新鮮です面白いと思いました。また、結語に記された問題提起には共感できました(ただ、真新しいとは思いませんでした)。
しかし、「わが国には経営判断原則は存在してこなかった」という結論はいまだ論証には至らず、というのが正直な感想です。
経営判断原則は、そもそも舶来品なので、もともと存在しなかったから何なのだ?という疑問が一つ。わが国の法解釈論はヨーロッパ由来の舶来品だらけで、その中にはもともとわが国に存在しなかったものも珍しくないはずです。結語の問題提起に繋がるかどうかも疑問です。他の法理論も、継受したあと日本独自の再構成を迫られたものがあります。その国独自の再構成を迫られるのは、むしろ輸入理論の宿命であり、「もともと存在しなかった」ということから説き起こす必要性が無いように思います。
なお、経営判断原則はアメリカ理論というのが一般的な理解かと思いますが、アメリカの法理論というのはコモンローを主体として、海を渡ったのちは英国本国への反骨思想と亡命ドイツ人による理論的発展により現在の形になっていると理解しています。何がいいたいかというと、経営判断原則も元をたどれば大陸に由来する可能性があり、仮にそうだとすると、既にヨーロッパ(主に独仏)からの輸入理論が席巻している日本にすんなり入ってきたのはうなづけるということです。
また、存在しなかったところに外国の理論が輸入された場合、ある程度受け入れる素地がないと理論は定着せず、放逐されるか改良されるかのいずれかしかありません。経営判断原則はどうでしょうか。論者のいうように、思想としての経営判断原則はまったく存在しなかったといえるでしょうか。それそのものが存在しなかったのは論証するまでもありません。しかし、裁量権を持つ者の判断を、事後の第三者が評価をするのは困難(その時のその人の立場でなければ真の妥当性は評価できないし、裁量権と結果論は相容れない)という考え方は自然であり、少なくとも漠然と存在した可能性はあると思います。現に、行政裁量を司法判断で代置することを忌避する理論(これも舶来かもわかりませんが)の存在が指摘できます。つまり、経営判断原則を受け入れる素地はわが国に存在した可能性があると思います。論者の論証過程は現象に理由を与えるに終始しており、結論を論証できていないと考えます。
さらに正直に述べると、論者が「裁量の幅」を論じる部分において、裁量の幅が事後に決定付けられるような表現が見受けられますが、違和感があります(善解できなくもないですが)。裁量の幅は、論者が分解して説明するように、行為者の属性による類型的な裁量幅と、ある時点の四囲の状況における可変幅があると思います。しかし、裁量が問題になる場面というのは、ある人のある時点における判断が問題であり、当該時点の裁量幅は客観的に一定であるはずです。これが証拠の量などにより変化するかのうような表現に違和感を感じます。
医師と経営者の裁量の類型的相違を説明する手法は上手いと感じました。
最後に、法令違反行為に経営判断原則の適用はあるか?という点については、故意の場合と過失の場合を分けて考察すべきです。故意の場合を含めると、はじめから裁量があることを前提にしたような語り口には賛同しかねます。法治国家である以上、法令違反行為にはもとより裁量権がないはずです(規範に抵触しない罰則規定やマイナーな行政法規の存在が議論の混乱を招いているようにも思う)。もっとも、「裁量が無い」=「裁量がゼロに収縮している状態」ととらえれば説明の仕方の違いに過ぎないのかもしれません。一方、過失の場合、マイナーな行政法規違反があった場合など、無過失の抗弁を許容する余地がありますが、これを経営判断原則から理由付ける例はそもそも存在しないと思います(あったら知りたい)。結局、法令違反行為には経営判断原則を持ち込む必要がもともとないといえば足りると考えます。
「3つのアノマリー」に説明を与えることが「わが国には経営判断原則は存在してこなかった」という結論を支える論拠になっているのか?というのが最大の疑問であり、私はさらに、結論そのものにも疑問を感じています(経営判断原則を受け入れる素地としての類似の思想は存在したはずだ)。
長々とすみませんでした。
投稿: JFK | 2009年3月 6日 (金) 00時44分
読み手の感動がじかに伝わるような記事で、御紹介の論文は機会があれば是非読んでみたいと思いました。
もっとも、恥ずかしながら、「法令違反行為がかならずしも裁量の幅の縮減とは結び付かないのではないか?」とおっしゃる部分は、ちんぷんかんぷんでした。
JFKさんが示唆しておられると思いますが、「過失による有価証券報告書虚偽記載」は行政法違反や民事責任なら問われる可能性がありますし、また、論理的には「善管義務違反⊃法令違反行為」とも考えられるでしょうから、御議論はやや強引なような気もします。
投稿: ロックンロール会計士 | 2009年3月 7日 (土) 18時18分