JR西日本事故報道から探る不作為の過失(立件方針-その2)
土曜日から日曜日にかけまして、多くの方より(いくつかのエントリーに対して)たいへん有益なコメントを頂戴しております。「監査法人の赤字経営・・・」については、まだお返事させていただいておりませんが、私の疑問が初歩的で素朴なものであるにもかかわらず、「なるほど」と頷きたくなるものでありまして、是非そちらもご覧ください。また「内部統制1年目の総括・・・」のほうも、示唆に富むものであります。(crossさんのコメントは、本来私がフォローしておかねばならないところ、ありがとうございましたm(__)m)そして、昨日の「JR西日本事故報道から探る・・・(その1)」につきましては、酔うぞさん、辰のお年ごさんから、これまたたいへん貴重なご意見をいただきました。本日のエントリーの内容とも関係のあるコメントですので、興味深く拝読させていただきました。
このたびのJR福知山線事故に関連するJR西日本社の対応につきましては、企業コンプライアンスならびに内部統制(本件に沿っていえば安全体制確保義務)に関わる重大な課題を含んでいるものであります。しかし、JR西日本の前社長が業務上過失致死罪で起訴されていることからしますと、やはり今後も本事件において関係者に刑事責任が問われるのか否か・・・という点を中心として検討していきたいと思っております。
最近、元検事でコンプライアンス問題に詳しい郷原信郎先生が「検察の正義」(ちくま新書)を出稿されましたが※1、そのなかで鉄道事故に関する日米の刑事司法の在り方の差について触れておられます。アメリカの場合は再発防止のために事故の真相究明が第一とされ、関係者には司法免責を付与して、事故に関する供述を最大限引き出すことに全力を挙げるそうであります。いっぽう日本の場合には、航空・鉄道事故においても、一般の事件と同様に業務上過失致死被告事件として立件して、真実の発見も刑事司法が担うことになる、とのことで、ここが日米の大きな違いである、とされております。(上記著書61頁)また、郷原先生は、公正取引委員会へ出向されていた経験から、独禁法違反事件の告発に関しては、公取委と検察との間には根本的な考え方の違いがあったとして、たとえば独禁法違反について公取委は法人単位、事業者単位、つまり企業その組織全体の行為として明らかにすればよく、個人の行為を特定することはほとんど行われなかった、しかし検察の考え方は事業者や法人企業ではなく、個人の行為につき成立するものであり、それを具体的に明らかにすることが刑事処罰の必要条件だとする伝統的な刑事司法の在り方に基づいていた、と述懐されておられます。(上記著書48頁以下)このあたりの記述内容は、本件を(被告人に対する刑事追及の在り方を)検討するにあたり、とても参考になろうかと思います。
※1・・・この郷原先生の新書は長銀事件最高裁判決に関する検察の論理などにも言及されており、村上ファンド事件やライブドア事件に関する郷原先生の見解も含め、とてもおもしろい一冊です。また、「検察」という組織が、23年間、「郷原検事」をどのように処遇してきたか、一度辞表を出した検事を慰留しつつ、検察は何を期待したのか、といったあたりも、これまであまり触れられてこなかった検察の組織の論理を垣間見るようで、楽しめます。
昨今の運輸安全委員会とJR西日本幹部との接触(鉄道事故調査委員会報告書における癒着疑惑)に関する一連の報道は、(昨日も書きましたが)驚くべき事実を報じるものであります。委員とJR幹部が接触していた当時の副社長さんは、取材において「その当時は、ヒアリングなど、(事故調とは)正式な接触の機会が多かったから、その延長線上のことと認識していた」と述べておられるようです。しかし、私は企業コンプライアンスの視点からは「外観的独立性」こそ重要であり、たとえ元副社長さんの言い訳が真実であったとしても、その接触が正当化されるものではないと理解しております。(当時の被害者およびご遺族の方々の事故調査に対する姿勢からすれば、外観的独立性の重要性はJR西日本社の方々がもっとも意識していたはずではないでしょうか。)むしろ、元副社長さんは否定しておられる「会社ぐるみ」の責任逃れ、と言われても仕方がないように思われます。ただ、コメントにおいて辰のお年ごさんが指摘されていることに近いのかもしれませんが、鉄道事故調査会の対応を非難したり、JR西日本の企業風土(不祥事体質)を糾弾することと、個人の刑事責任を追及することとはまったく別でありまして、むしろ現時点の検察は、ともかくJR西日本の幹部社員(だった個人)の立件に全力投球をしているさなかに、「西日本の企業風土の悪質さ」を論難することは、むしろ刑事事件の立証において悪影響を与えるのではないか、と感じざるをえません。結局のところ、このたびのJR西日本事故では経営トップの刑事責任は問われないことになりましたので、前社長が鉄道本部長だったときの幹部職員としての刑事責任が果たして有罪となる可能性があるのかどうか、検討してみたいと思います。
ところで、不作為の過失犯を業務上過失致死罪として立件する場合、私は責任要素としての予見可能性(具体的な事故発生に対する予見可能性)と「不作為犯」の実行行為性(結果回避可能性を前提とした結果回避義務)および結果と実行行為との客観的な因果関係を検察側が立証する必要があるものと考えております。このうち、「予見可能性」の立証については、「福知山線のカーブ変更直前における函館脱線事故の資料をJR側が鉄道事故調査会にわざと添付しなかった」という事実によって、かなり立証の成功度合が高まったのではないか、と考えております。たしかに、1年以上前の新聞報道においても、函館脱線事故に関する話題が福知山線カーブ変更直前の会議で検討されていた、ということは伝えられておりましたし、このたびのリーク記事でも、函館事例が「ATS(自動列車停止装置)を設置していれば防ぐことができた事例」として紹介されていた、という事実が判明したようであります。しかし、これだけでは福知山線のカーブ変更により、函館と同様の事故が発生するであろう、といった具体的な予見可能性までは立証できないところだと思います。(これは鉄道会社における専門領域に踏み込む内容であるがゆえに、函館と福知山とでは、そもそも様々な個別事情によってATS設置の必要性が異なっていた、と反論されれば、素人では再反論が苦しいのではないでしょうか)しかしながら、JR側が事故調査委員会に対してわざと函館事件に関する資料を隠匿して提出していた、という事実が認定されたとしますと、少なくともJR側としては「表に出てしまってはマズイ資料」という認識はあったことになりますから、その会議に出席していた前社長(当時の鉄道本部長)も、福知山線にもATSを設置しなければ、脱線事故が発生する可能性をかなり具体的に認識していたことを示す資料と認定することはできそうであります。つまり「資料があった」ことよりも「資料を隠した」ことが被告人の予見可能性を立証することになる、というものであります。なお、ここで問題となる「予見可能性」は「カーブを変更すれば脱線事故が発生する可能性が極めて高くなること」に関するものであって、「ATSを設置しなければ脱線事故が発生する可能性が極めて高くなること」に関するものではないことに注意が必要であります。
つぎに過失犯の実行行為性でありますが、結果回避義務の観点からみますと、まず鉄道本部長というポストは、具体的に事故発生の危険を予見した場合には、これを回避すべく対応できるポスト、ということで前社長のみが(カーブ付け替え工事時における鉄道本部長として)起訴されたことはすでに報道されているとおりであります。この鉄道本部長の結果回避義務を論じるにあたっては、結果回避可能性が認められることが前提であります。たとえば当時の鉄道本部長として、カーブの変更によって具体的な事故の危険性が高まることを認識していたのであれば、たとえばいくつかの選択肢のなかからその危険を防止するための安全対策を採る必要が生じると思われます。そして、その選択肢のうちのひとつとして、ATSの設置が検討されるべきである、というものであります。このたびの検察からの開示情報では、前社長は事故調査委員に対して(事故調査報告書のなかから)「ATSがあったら本件事故は防げた」という文言の削除を要求しています。本来、当時の鉄道本部長としては、いくつかの選択肢があれば、どのような安全対策をとるべきかは本部長の裁量があったのかもしれません。しかし「ATSがあれば事件は防止できた」と書かれてしまいますと、すくなくともATS設置という選択肢を採用する必要性があったこと(もしくはそうすべき認識があったこと)の可能性は立証されてしまいます。これは結果回避義務を認定する前提としての「結果回避可能性」の立証を大きく前進させるものであります。なおかつ、実行行為性が立証された場合の結果との客観的な因果関係を立証するためにも大きな事実となるはずです。
このたびの検察から開示された情報から、以上のような理由で私は前社長の業務上過失致死傷罪立件に向けて、実際にはかなり前進しているのではないか?といった印象を持ちました。ただ、ここで問題となるのは、JRの企業体質が問題であるとして、たとえば歴代の社長が悪い、カーブ変更時における経営トップも刑事責任を追及されるべきである、といった事業者、企業としての法人処罰への世論の高まりであります。何度も繰り返し述べますが、本事件ではカーブ変更時における一幹部職員の刑事責任が「安全確保体制をとらなかったこと」を理由として処罰されようとしているものであり、いわゆる「監督過失」を問われているものではありません。したがいまして、「結果回避措置をとろうとすれば、鉄道本部長としてすぐにでもとれたこと」が立証される必要があります。しかし、もし当時の経営陣の責任を追及しようとすれば、経営陣の指示命令権を立証することが必要になってきます。ところが、もしこの指示命令があったとすると、(もしくは指示命令がなければ職員が判断できないとすると)そもそも鉄道本部長という地位にある職員の一存では、すぐにでも福知山線のカーブ変更にあたり、ATSを設置できる立場にはなかったことになり「結果回避可能性」の立証に支障を来すことになってしまいます。このあたりが、伝統的な刑事責任追及の在り方によって立件へ尽力している検察としては、「我々が我々のやり方で真相を究明するので、あまり運輸安全委員会への批判や、企業自身の責任追及に向けての気運などを高めないでほしい・・・」と感じているところではないでしょうか。また、このように「結果回避可能性」を基礎付ける事情を検討していきますと、たとえば福知山線以外にも、優先的にATS装置を付けるべき個所は全国にどれくらいあったのか、予算措置は十分にとられていたのか、具体的にATS設置場所を決定するにあたっての社内手続きはどのようになっていたのか、といった事情から、まだまだ当時の鉄道本部長さんとしては、結果回避可能性をめぐって争う余地はずいぶんとあるのではないか?と考えた次第であります。
以上は、外野の法曹としての思いつき意見に過ぎません。ただ、いろいろな報道内容がセンセーショナルに伝えられているように思いましたので、問題点を整理するうえでの参考程度にはなるかもしれません。長い文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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コメント
事故原因をATS設置がなされていなかったという風に考えてしまうと、私は誤認になると思っています。福知山線にも信号見落とし自動ブレーキのATSは設置されていた。新型のP型ATSを設置しつつあったが、分岐点(ポイント)での事故の方が多い(JR西日本発足後のカーブ脱線は、函館線の貨物で2件のみ)との認識で、カーブへのP型ATS設置は、あまり計画されていなかったと、事故報告書を私は読みました。なお、法令上は、新型のP型ATSを設置は義務付けられていなかった。
事故の根本原因には、懲罰的な日勤教育を初めとした旧国鉄の古い経営体質があったと私は思います。国鉄民営化には、旧国鉄の古い体質を上場株式会社に組織変更して、ガバナンスやコンプラを確立して、ユーザーを初め多くのステーキホルダーに対する責任の強化を目指すことであったと考えます。
JR西日本にも社外取締役がおられます。本来、政府現業部門の民営化であれば、外部の民間から来た取締役が大きな役割を果たさねば、意味がない。もし、お飾りや名誉職ではない、民営化に対して実際に業務執行を行う社外取締役が選任されていれば、もしかして多少は違ったのかなと思う次第です。就任された社外取締役の批判よりは、民営化に対して、形骸的な民営化でも、それだけで前進として深く考えなかったことへの反省です。
投稿: ある経営コンサルタント | 2009年9月29日 (火) 11時20分
経営コンサルタントさん、ご意見ありがとうございます。とりわけこの件は経営コンサルタントさんのブログでも詳細に採り上げておられますので、参考にさせていただいております。
私もさすがに今回の一連の癒着問題はビックリしました。国鉄の古い体質というものは、たしかに皆様がたのコメントを通じて痛感いたしました。おそらく社外取締役の選任についても、かなり名誉職的な発想でのことではないか・・・と感じるところがあります。
さて、問題は運輸安全委員会の委員人選まで発展しておりますが、いかがでしょうかね?責任追及と真実発見・・・これはどちらを優先させるべきか、十分検討すべき点があると思います。
投稿: toshi | 2009年10月 6日 (火) 00時42分