最高裁は「社外取締役制度」をどう考えているのか?(その2)
このタイトルは本年7月16日の前回のエントリーにおきまして、常連の方々より不評を買いましたが、前エントリーは拙ブログの歴代閲覧数からしますと、第10位程度にランクされておりまして、結構多くの方に読まれているエントリーでございます。今年7月15日のアパマンショップHD事件最高裁判決は、間違いなく私にとりましては今年の10大判決に含まれるものであります。前エントリーの中で「有識者の方が書かれる判例評釈が出ることを楽しみにしている」と申しておりましたところ、旬刊商事法務11月5日号にて落合誠一教授が「アパマンショップ株主代表訴訟最高裁判決の意義」という論稿を発表されました。この週末やっと落合論文を拝読させていただきました。
「そもそもそんな政策的なこと考えて最高裁が判決出していいのか?」という常連の方のご指摘どおり、落合先生はとくに社外取締役制度を最高裁が考えて、こういった判決を出したのだ、ということは全く触れておられません。むしろ、現行会社法の解釈から、経営判断原則の法的根拠を導き、そこから判例の妥当性を考察しておられます。(そりゃそうですよね・・・株式会社といっても、閉鎖会社から上場会社までいろいろありますし・・・少なくとも「経営判断原則」は上場会社だけの議論とは言い切れないわけでして・・・・・)
落合先生は高裁と最高裁でほとんど経営判断原則の枠組みは変わらないものの、経営判断への踏み込み方が積極的なのか、消極的なのかというあたりを分水嶺として整理され、最高裁は経営者のビジネス的な判断過程を尊重した、極めて妥当な判断であると解説していらっしゃいます。(最高裁の審理において、「高裁判断が確定してしまってはビジネス世界はたいへんなことになる!」」とお考えになって、意見書も提出されていたそうであります)裁判官の常識と、ビジネス世界における経営者の常識とは大きく異なるものであり、後だしジャンケンを排して経営者の常識を尊重しなければ、経営者は萎縮してしまってグローバル競争の激しい世界で日本企業は取り残されてしまう、ということを力説されておられます。
いっぽう、あまりに経営判断原則を強調して、経営者の法的責任が問われない状況を生ぜしめると、そもそも不適切な判断を下した経営者まで不当に保護してしまうのではないか、という懸念も出てくるところであります。ただ、この点につきましては①たとえ善管注意義務違反というサンクションを厳格に適用してみても、問題のある経営者にどこまで効果的であるかは疑問である、という理由とともに、②司法によるサンクション以外の規律によって、経営者は十分に淘汰される仕組みがあるのだから、そちらで対応するべきである、との考えをお持ちのようであります。このあたりは、落合先生は経営の失敗によって「無能」という烙印を押され、経営者は首をすげ替えられるのであるから、たとえ善管注意義務違反を問われずとも、不当な経営の抑性が有効に機能する、と説いておられます。ここからは私見でありますが、私も同様の感想を、前回のエントリーでは述べたのでありますが、このあたりから社外取締役制度導入論へとつながることはないのでしょうかね?前回のエントリーで「最高裁は社外取締役制度を導入する基礎を築いた」と書いたことは少し言い過ぎだったかもしれませんが、落合先生も、この商事法務の論文におきまして、今後終局的にはアメリカのビジネスジャッジメントルールと日本の経営判断原則は一致する方向になるようにすべき(この原則がよって立つその基本的な存在根拠は同一であると考えられるので)、と説いておられますのでありますが。。。
たいへん勉強になりました。昨年の日本システム技術事件と今年のアパマンショップHD事件によって、最高裁の最近の経営者責任への司法判断の在り方が、少しばかり整理できたような気がいたします。ちなみに落合先生は、積極的な独立社外取締役制度導入論者のおひとりで(「独立社外取締役ハンドブック」日本取締役協会 2010年 130頁以下、「ビジネス法務」中央経済社2010年4月号1頁以下 ご参照)、会社法を改正したうえで、取締役会の専決事項を極力会社の基本事項に関わることに限定をしたうえで、独立社外取締役を過半数導入すべし、との意見をお持ちであります。アパマンショップHD最高裁判決へのご見解と、この社外取締役導入論が論理的につながるものではないことは承知しておりますが、こういったコーポレートガバナンスへの強い思いがあって、初めて上記の最高裁判決の方向性が首肯しうる、ということも(少しは)あるのではないか、と考えております。
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コメント
以前のコメント欄で「最高裁が下級審レベルでいわれたいた日本版ビジネスジャッジメントルールを追認した・・・」という主旨の私見を書きましたが、改めて判決全文を読むと、語弊のあるコメントだったかなと気づきました。
私はどちらかというと第一審の言ったルール(前提となった事実の認識に重要かつ不注意な誤りがなく、意思決定の過程・内容が経営者として特に不合理・不適切(著しく不合理な)な点がなかったか)が妥当だと思っておりまして、役員さんにも説明がしやすく素人ながら勝手に気に入っておりました。しかし、最高裁によれば、前提事実の収集・認識プロセスから判断プロセスまでを区別することなく「著しく不合理だったか否か」という基準でまとめていますので、必ずしも従来の規範と同じスタンスなのかは分からないですね。
あえて判断過程と距離を置いたのか、あるいはそのような意図はないのか(従来の規範と同じつもりなのか)興味のあるところです。
「著しく不合理」というモノサシはかなり緩いので、これを狭義の判断プロセスだけでなく情報収集・認識プロセスにもかぶせてしまうと、結果責任を問われることなど殆どないと誤解する経営者も出てくるかもしれません。事実認識レベルで重要かつ不注意な誤りがあれば判断結果は著しく不合理なものになるのが普通だと思われます。また、最高裁とて「総合考慮」「著しく不合理」といった言葉をラフに使いつつも、実質的な審査密度は従来のルールとあまり変わらないようにも読めます。
そうであるならば、現実に経営に当たる方々への分かりやすさという意味でも、もう少し分析的で判断過程に沿った規範を立ててもよかったのではないでしょうか。
投稿: JFK | 2010年11月17日 (水) 02時09分
jfkさん、コメントありがとうございます。
例の日本システム技術事件も、ふたつの(結論の異なる)高裁判断を最高裁で統一したように、本件も事件に近い方にお聴きしますと、いろんな事情が出てきて参考になります。そのあたりを含め「総合考慮」といった言葉で含んでいるように思いました。
経営判断原則が問題となっている裁判例を解説する場合には、原審から丁寧に判決文を読まないと、どの事情が裁判所で取り上げられ、どの事情が取り上げられていないのかを分析しないときちんと理解できないのでは、と自戒しております。(その取り上げられ方こそ、裁判所の判断過程を知る上ではけっこう有効だったりするのでは・・・と)
投稿: toshi | 2010年11月20日 (土) 09時26分