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2011年6月13日 (月)

原発事故・「想定外」と情報開示に関する素朴な疑問

日曜日(6月12日)の夜、高濃度のストロンチウムが(福島第一原発地域で)地下水や海水から検出された、とのニュースに触れ、汚染水処理施設ができたとはいえ、いよいよ原発事故もたいへんな状況となってきたことを覚悟いたしました(朝日新聞ニュースはこちら)。ご承知のとおり、ストロンチウムは半減期がとても長く、放射線を体内から浴びて白血病を起こす危険性が高いわけで、今後は放射性物質が混入していることをあえて承知の上で食品を摂取しなければならないことになるんですよね。これによって今後、工程表のとおりに福島第一原発が冷温停止状態に至ったとしても、土壌や海水汚染によって長期にわたり、健康被害が持続することになるようであります。もはや東電さんの「健康に影響が出ないレベル」との意見情報は誰も聞く耳を持たなくなったのでは、と。

事故から3か月も経過しますと、テレビに登場される専門家の方々がおっしゃることが全くアテにならないことが判明し、もはや自分が信用できると思われる専門家の方の判断基準をモノサシとして、そこに東電さんや政府の事実情報を集めて判断するしかなさそうな状況であります(今頃認識しても遅すぎたかもしれませんが・・・・)。まさに今回の原発事故で正確な情報と、自己責任による判断の重要性を痛感いたしました。ついに私のように(事の重大性にわざと目をそむけて)ノホホンと暮らしていた一般庶民も、家族と今後のことをきちんと話し合う時期になってしまったようであります(関電の15パーセント節電要請もありますし・・・)。

原発事故にあまり詳しいほうではありませんので、これは素朴な疑問なのですが、東電さんは今回の福島第一原発の事故発生は「想定外」「不可抗力」という言葉をお使いになるようですが、なぜ想定外の事態に至ったのにもかかわらず、事故発生当初から情報開示に積極的でなかったのでしょうか?想定外ということは、専門家軍団である東電さんでも、今回の事故収束に向けて原発をコントロールできない、ということですから、海外なり、街場の専門家なりの支援を得られるよう、たとえ正確なものでなくても、事実情報を速やかに開示しなければならなかったはずであります。素人的発想としても、なぜ製造元のGEの支援をとりつけなかったのか、とても疑問であります。この疑問は、事故発生当時の状況を斟酌したうえでのものであり、けっして「後だしジャンケン」的発想ではございません。これは東電の役員の方々の善管注意義務にも影響を与える可能性が高いのではないでしょうか。

かりに、東電さんが開示すべき情報を自社で選択し、かつ正確性を調査したうえで開示していた、ということ、つまり東電としての情報開示が適切であったとするならば、それは原発事故が自社の能力においてコントロールできていたことを示すものであり、当然に想定内の事態への対応をしていたということになるのでは?との疑問が湧いてまいります。もし想定外の事態に至ったにもかかわらず、消費者、専門家、海外諸国に向けて適切に情報開示をしていなかったとするならば、それは(組織の社内力学としては、そういったことがあり得ても)経営判断としてはあり得ない選択ではないか、と。

ホンネで申し上げますと、この高濃度ストロンチウム拡散の情報のように、適時適切な情報開示は東電さんしかできないと思いますので、これからも東電さんには頑張ってもらうしかないと思っております。しかし、原発事故の法的責任という視点からみると、東電さんの情報開示の在り方は、①情報開示の対応自体に過失がなかったかどうか、②情報開示の対応の稚拙さから平時における安全対策の過失が推定できないか、という二つの重大な問題に結びつくのではないか・・・・・と、考えたりしております。

あと、余談ではありますが、関電の株主総会で「脱原発」が株主提案で審議されるそうであります(ニュースはこちら)。社長さんの解任議案等は別としましても、脱原発議案については、関西では50%を原子力に依存しているものの、もはやイデオロギー的な問題とは言えないですね。私は関電の大株主である各企業さんが、この株主提案について賛成票を投じたのか、反対票を投じたのか、開示してほしいと思います。賛否いずれにせよ、各企業がどのようにエネルギー問題を考え、社会的責任を果たそうと考えているのか、ぜひお聞きしてみたいところです。

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コメント

相変わらず、若干ひねくれた、かつ、アンチテーゼとしての意見を記載してみたいと思います。

>東電としての情報開示が適切であったとするならば、それは原発事故が自社の能力においてコントロールできていたことを示すものであり、当然に想定内の事態への対応をしていたということになるのでは?との疑問

>原発事故の法的責任という視点からみると、東電さんの情報開示の在り方は、①情報開示の対応自体に過失がなかったかどうか、②情報開示の対応の稚拙さから平時における安全対策の過失が推定できないか、という二つの重大な問題に結びつくのではないか・・・・・と、考えたりしております。

これらの点については、そうなのでしょうか?

論理的には、「アンコントローラブル」であるが故に「適切であると思っていた」情報提供が、事後的にみれば「結果的に」不適切であった、ということは当然ありうべき事態かと思います。むしろ「コントロール出来ている状態」であって初めて開示も「適切性を確保できる」のでしょう。
もちろん、「コントロール出来ている状態」でも「開示が不適切」ということもあるわけですが、「コントロール出来ている状態」における議論は、単純に開示体制であったり、開示に対する判断の世界の話ですので、通常時の開示の議論と変わらないと思います。

「神ならぬ人間」の行うことですので、誠実かつ最大限の努力を以てしても不可能なことはあるように思います。


以下、上記とは別論ですが、異論ある方も多いかと思います。が、率直な意見として。

最近の「世間の風潮」という非常に論理的ではない、漠としたイメージ感覚で申し上げると、あらゆる事故について、誰かに帰責しなければ納得しない、というようなことがまかり通っているように思えてなりません。

正直いって、当事者としての立場にたったとして考えると、国が定めた基準に則って設置し、承認を得て、運転を行っていたとする状況で、事後的に責任を問われるとするならば、恐ろしくて役員なんぞ務められないでしょう。もちろん、運営上の過失等があれば別ですが、それはその過失等に対する帰責であるはずです。

(以下は若干、性善説があるので、100%までの確信をもった意見ではないのですが、その点を踏まえていただければと思います。)
さらに言えば、今回のような不測の事態で、精一杯対応しているなかで、事後的に過失だとか、責任だとか、そういったものが生じてくるところに違和感を感じます。もちろん、今回の事態において、手を抜いたり、事態鎮静化に向けた最善(但し科学的最善ではないです。不測の事態ですからそんなの判るはずなく、ここでいう最善は「社会的最善」で、例えば「コスト考慮しない」「企業利益を考慮しない」etc.という点で最善ということになるかと。)ではない手を取っていたとなれば別ですが。

なんとなく、東電をかばうような論調になっていますが、同じレベルで他の企業にも「刃」が向かうのであれば、商売をする気が失せるなぁと思った次第です。その結果が本当に日本のためになるのか、はなはだ疑問を持っているところです。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年6月13日 (月) 12時20分

場末のコンプライアンスさん、ご意見ありがとうございます。

私はまったくコンプライアンスさんの意見が理解できません。

事故がコントロールできないからこそ、誰かに助けを求めなければならないのでは?そのためには事実情報が速やかに開示する必要があるのではないでしょうか。
企業の持続的成長を信認された役員としては当然そうすべきではないでしょうか。

たとえばダスキン事件のように、消費者の安全確保が喫緊に迫っていない状況であれば経営判断も成り立ちますが、国民の生命身体に重大なリスクが迫った状況で、事故管理ができないのであれば、おそらく善管注意義務の問題に裁量の余地はほとんどないものと思われます。

投稿: toshi | 2011年6月13日 (月) 12時53分

コメントありがとうございます。
やはり、いつも言葉足らずで、反省しきりです。

>そのためには事実情報が速やかに開示する必要があるのではないでしょうか。

>おそらく善管注意義務の問題に裁量の余地はほとんどないもの

この認識について、私は相違があると思っているのです。
もちろん、「開示は意図的に行う」行為である以上、開示しないことも「意図的」であるという意味において、正しいのかもしれません。

ただ、そもそも東電は把握していた、という前提に立っていれば、ご指摘の通りだと思いますが、コントロールできていないということは、そもそも把握していないということになるので、開示すべき情報を組織としては持ち合わせていない状況が生まれている、と思うわけです。

東電の一部署の一デスクにはあったかもしれません。が、それは平常時なら開示体制の問題として挙げて叩かれてしかるべきでしょうが、あの状況下で出来ることなのか。

要するに開示するしないの判断が出来る状況にないだけではなく、そもそも把握することすら出来ていなかったということだと思います。
それは開示体制として、上場企業としてふさわしくない、あり得ない、という指摘は、理論的には正しいと思います。そうあるべきだと思います。

ですが、あの状況下で出来ることなのか、という、むしろもっと素朴な疑問なのかもしれません。

>事故がコントロールできないからこそ、誰かに助けを求めなければならないのでは?

これに沿って考えると、「ごめんなさい、把握できていません。ですので開示できるものがこれ限りです。」というのが率直なのかもしれません。それによって現場が混乱し、本当に必要な作業要員に割り当てできなくなるリスクを考えなければ、ですが。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年6月13日 (月) 15時59分

いえいえ、私のエントリー自体がむしろ「アンチテーゼ」に近いので、そのアンチだとそちらが正論かと(笑)。
おっしゃることはなんとなく理解できました。前提となる事実関係に関する指摘は残念ながら、今回のエントリーでは述べておりません(そこまで述べるにはブログという媒体には限界があるのです)

実は、本件は非常に微妙な問題を含んでおりまして、これ以上の議論をここでするのは控えさせていただきます。続きは某雑誌をご覧ください、ということで。。。(また、その節は広報させていただきます)

投稿: toshi | 2011年6月13日 (月) 16時50分

GEの支援をとりつける、というのは無理でしょう。なんといっても、8年ほど前のデータ改ざん事件の発覚はGE(子会社)による内部告発だったのですから。また何を指摘されるかわかったものではありません。

投稿: nore | 2011年6月13日 (月) 18時47分

ハンドルネームが嫌いなのでいつもながら実名で失礼します。
先生の主張は正論だと思いますが、失礼ながら「性善説」に立っておられるので、「良心的な企業マンのマインドからしたら、そうするべきですよねえ」と思いますが、あの「ヒトゴトのような会見」見てるだけで東電の人達には「個人レベルから会社レベルに至る、あらゆる段階で<保身が全て>となっている」と想われ、「こういう状況を開示しますから、ヘルプを」などという発想はそれこそ「想定外」、彼らからしたら「論外」に違いないと想えるのです。
「場末のコンプライアンス」さんも、ある意味では(先生とは逆の意味で)性善説に立っているようで、一見冷静に客観的に論じているようですが、「現場に入って行かないで考えている」論考に思えます。開示とか企業の行動とかを「平時」の状態で述べている。「今、平時ですか?」ということです。
「事後的に責任を問われるなら、役員やってられない」って、「事後的に企業責任が問われないアクシデント、トラブルなんてあると思いますか?」有り得ないですよね。「商売する気が失せる」とおっしゃるけど、原発による電力事業というのは「コンビニでチョコレートを売る商売とは次元が違います」。
人命にかかわることですよね?
最後にご参考ですが、孫正義さんは雑誌「世界」6月号で「関西で放射線を測ったら、東京より高い数値が出て驚いた」と書いています。
失礼ながら「場末のコンプライアンス」様の見解で一番気になるのは「ヒトゴト的な感触」なのですが、こう申しあげたい。
「もうこの国にいる限り、ヒトゴト的なコメントは無意味です」

投稿: 伊藤晋 | 2011年6月14日 (火) 01時45分


「平時」で物を考えていたわけではありません。
むしろ「異常時」だったので、開示に問題あり、っていう先生の論調に対して「そうじゃないんでは?」と疑義を唱えたつもりです。

原発問題は、顕在化した「リスク」、いや、より明確には「損失」だと思いますが、その合理的負担配分の話だと思っております。
そのなかで、「国民は被害者だから負担するのはオカシイ」ということもあるかもしれませんが、国が進めた政策で、それを民主政治の中で支持してきたわけですから(ココには明確な指示は不要です。なにせ代議制を取っているのですから。)、それに応分の負担は必要だと思うのです。
念のため付言しますが、対処経過において、明確な過失行為などがあれば、その点については明確に過失者に負担せしめるべきです。

伊藤さんのご指摘する
〉「事後的に企業責任が問われないアクシデント、トラブルなんてあると思いますか?」有り得ないですよね。
については、明確に反対の立場です。

そのような事態はありえて、それは社会で共有され、そのためのリスク分散装置、相互扶助装置として国家が存在するのだと思います。
科学万能、すべての事態は解明されている世界に生きていないので、誰もが分からない事態はおきますが、それでも誰かが負担しなければならないわけです。
今回の対処において、できる対処を行ってもまだできないことについては、そもそも期待可能性がないと思いますので、「もし」「だったら」で責任負担させるべきものではないと思うわけです。

もちろん、過去の学問成果で予見された津波だ、云々の話はあります。
が、国がその基準でなくともよい、とした以上、それ以上を求めることについては、単なる後付の議論にすぎないと思います。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年6月18日 (土) 16時11分

伊藤さんと場末さんの意見はたいへん興味深いです。
ただ、ブログで議論するのはちょっと「力不足」だと思います。ということで、この議論はブログのコメントで収束させるべきではないと考えております。

商事法務さんからのおススメでNBLにこの問題に関する持論を展開させていただきました。単なる性善説でもありませんし、津波の高さだけの問題でもない、東電問題の捉え方です。

投稿: toshi | 2011年6月18日 (土) 16時28分

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