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2011年7月11日 (月)

想定外シナリオと危機管理-東電会見の失敗と教訓

4785718916 東京の久保利英明先生からお手紙をいただきまして、「いつもブログを拝見しております。また、先生のNBLの論文を拝読し、参考になればと思い、一冊謹呈申し上げます」とのことで、久保利先生の新刊書を頂戴いたしました(どうもありがとうございます。<m(__)m>)

想定外シナリオと危機管理-東電会見の失敗と教訓(久保利英明著 1,400円税別 商事法務)

ただ、久保利先生には申し訳ないのですが、実は発刊と同時に一冊自費で購入しておりまして(当然といえば当然)、すでに読み終えたところでありました。NBLの論文を書き終えたころに、商事法務さんのメールマガジンを読み、久保利先生の新刊書が「東電問題」を扱われたものであることを知り、ドキドキしながら読み進めていたものであります。総会指導業務の合間をぬってしたためられた、とのこと。

実は私もNBL7月1日号にて「原発事故にみる東電の安全体制整備義務-有事の情報開示から考える」と題する論稿を発表させていただきました。私の論稿の次ページに、この久保利先生の新刊書が大きく広報されておりましたので、当ブログにお越しの方は、すでにお読みになった方も多いかもしれません。NBLでは、原賠法に詳しい森田章教授(同志社大学法科大学院教授)の論稿と共に掲載いただいたことをたいへん光栄に感じておりますが、私は(勝手な推測ですが)、東京の企業法務で著名な弁護士の方々は、おそらく東電もしくはメインバンク(みずほ)と何らかの関係があるため、東電を批評する論文は書きにくいのだろう、だから私のところにお鉢が回ってきたのだろう・・・と推測しておりました。

ところが、ところが。。。企業法務の第一人者でいらっしゃる久保利先生の「東電批判」はなかなかスゴイ。もちろんJA中央の代理人として、東電経営者とすでに賠償交渉をされている立場だから・・・という面もあるかもしれませんが、「ここまでハッキリ言うてええのん?」と思わせるほど、東電本体および同社役員個人の法的責任論について深く切り込んでおられます。先に本書を拝読していたら、私の論稿も、もう少し腰の引けていない(笑)論調になったかも(^^;。いや、おそらくこの違いは、やはり企業法務とりわけコンプライアンスや内部統制について実務で体得したものの違い(そこから来る自信)に起因するところが多いものと思いました。また、議員定数訴訟のスタンスと同様、国民の視点から東電を分析する、ということに力点が置かれているのが特徴的であります。

私の論稿と同様、本書でも、東電問題を扱うにあたり、リスク管理(リスクマネジメント)と危機管理(クライシスマネジメント)を分けて検討されており、原発事故発生前の安全対策、そして原発事故直後の危機回避の是非についての検討は、東電問題を超えて、危機に遭遇した企業の危機管理の在り方を再考させるものであります。私も本件を検討するにあたり、ダスキン事件判決は重要なモノサシになるものとして引用しておりますが、本書でも同様に情報開示のタイミングを含め、危機管理と役員の責任論を考える判断指針として掲げられております。リスク管理の面においては、「想定外」ではなく「想定しようとしなかったにすぎない」として、善管注意義務違反の有無についても明言されており、またクライシスマネジメントの面においては、やはり情報開示の失敗を検証され、「メキシコ湾で原油流出事故を起こした英国のBPと同様に、世界中の裁判所で世界中起こされる訴訟に対応せざるをえないだろう」とバッサリ。「マスメディアの失敗」は、昨今の「九電やらせメール」へのマスコミ対応などにも通じるところがあり、コンプライアンス問題を考えるうえでも参考になります。

本書を最後まで読み、ふと思ったことがございます。これだけ東電および東電の役員批判を痛烈に展開されているにもかかわらず、どうも「東電憎し」という印象が伝わってきません。著者は、これまでの電力会社の果たしてきた役割をご存じであるがゆえに、東電に完全に見切りをつけたわけではなく、むしろ東電の尻を叩いているのではないか?日本を支えてきた数々の経営者を輩出してきた名門企業だからこそ、荒治療を施してでも、名門復活のための体制整備が必要だと考えておられるのではないか、と思われます。マスコミでは「東電の甘い体質」「不適切な情報開示」という言葉が抽象的に使われており、その具体的な内容については語られていないことが多いのでありますが、本書においては何が体質として問題なのか、情報開示のどこが不適切なのかが(長年のご経験から)具体的に書かれており、だからこそ将来に向かっての改善策に説得力があります。

競争相手に負ければ倒産、という厳しい業界であれば、企業にとってコンプライアンス重視ということも身にしみるわけですが、これまで公企業は「不祥事が発生しても、頭を下げれば一件落着」という理解があったのではないでしょうか。おそらく電力会社にも、そのような企業風土が根強く残っているものと思われます。しかし、そうではない、ということを今回の痛ましい震災が証明したのでありまして、東電ですら、継続企業の前提について注記が付され、コンプライアンス違反によって存亡の危機に陥ること、そしていったん失った信頼を回復することは容易ではないことを東電に学んでほしい、だからこそ著者は国民の側に立って、本書を世に著したのではないでしょうか。

JR福知山線事故も、公企業にとって厳しい事件ではありましたが、解体の危機に至るものではありませんでした。しかし今回の事故については、賠償関連法の改正動向にもよりますが、本当に危機を招来しました。原発事故収束にはまだまだ気が遠くなりそうな時間を要するものではありますが、東電問題は国民の視点によるコンプライアンス経営を考えるうえで、今後も避けては通れないことを本書をもって再認識いたしました。

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コメント

ご高名な久保田先生の論説を拝読させていただいたものです。
久保田先生のご本が、企業法務の範囲の中で、書かれていることは、私も十分承知もし、また、一部の方には、事故への責任の回避を主張しているものと誤解されかねないものですが、あえて、異論を述べるものです。

 権限の裏付けを有するものは、その責任を負うのが当然である。詰まるところ、過失責任は免れない。東電の役員は、福島第1原子力の事故に関し、リスク回避の善管注意義務を負う。これが私の理解です。

 事故の影響が大きければ大きいほど、このような結果を生む原因は、邪悪な人間がいるに違いないと、世の中は考えるのが常だと思います。過失ではなく、意図的に義務を避けたのではないかとマスコミは、推定する結果になります。

 これは、原子力村という得体の知れないものが、事故の原因で、これを制裁することが、正義であるというような論理の飛躍が発生してゆく結果となっています。

 このような論調は、権限と責任にミスマッチがないことが前提とされております。負わされた責任と権限のミスマッチは、残念ながら見落とされているのではないかと思います。
 
 原子力の事故の場合、企業法務の範囲で所要の権限を待っていたのか否かが、一つの論点ではないかと思います。原子力村というものが、官民ともに同等であるならば、邪悪な支配者に見えるかもしれませんが、規制するものと、規制されるものが、癒着していることを前提として考えているのではないでしょうか。

 規制は、民間である東電と、規制当局である経産省と、役所を監督する国の政治、発電所を受け入れる地元の政治という4者のミスマッチがあることを考慮すべきではないかと思われます。

 原子力の事故について、責任を議論することは、心理的な防衛心と政治的な防衛心を引き起こし、国全体の事故の解明と今後の対応策は、個人の責任回避の陰に隠れてしまうのではないかと思います。

 2002年の東電シュラウド偽装報告の事件で、残念なのは、技術基準が不合理なままへの対応につき、東電の責任を糾弾されたにもかかわらず、規制当局のあり方について、何ら見直されなかったことです。

 久保田先生が、この点をどの様に考えておられるか分かりませんが、私から見ると、必ずしもバランスがとれていないように思われます。

 想定外シナリオは何故出てきたのかを、問うべきなのではないかと思います。

投稿: 法律素人 | 2011年7月11日 (月) 17時18分

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