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2011年7月27日 (水)

浜岡原発停止問題と住田弁護士の委員辞任

またまた某雑誌の原稿締切が迫っておりまして、ブログを更新する時間があまりございませんので、小ネタをひとつだけ。

今朝(7月26日)の日経新聞の隅っこの、5行程度の小さい記事が目に留まりました。住田裕子弁護士が原子力安全委員会の専門委員を辞任したことを報じたものです(住田裕子弁護士って、あの「行列」の元検先生ですよね?私はまったく存じ上げませんが)。電子版のほうの記事では、もう少し詳しい辞任理由が説明されておりまして、

住田氏は6月22日の専門部会で、中部電力浜岡原発が政治主導で停止した理由などの説明がないまま議論を進めることに対し、「お勉強会だ」(住田氏)と反発、辞表を提出していた

とのこと。私は原発反対派でも推進派でもありませんが、当ブログをご覧の皆様ならおわかりのとおり、いまだに浜岡原発の停止問題については法的根拠がよく理解できず、くすぶり続けております(ご興味のある方は、中部電力役員の英断と一般株主の素朴な疑問  闘うコンプライアンス 経産省vs中部電力 などのエントリーをご覧ください)。あれは適法な行政指導だったのか、違法な行政指導だったのか、また中部電力は「政治圧力」を理由に停止したことを説明していますが、それならば事実上は行政指導ではなく行政行為であり、指導の違法性を第三者が争う原告適格もあったのではないか?等々、疑問は尽きません。

先日も、東京で日弁連の偉い方の前で私見を述べ、日弁連としての意見を聞きたい・・・と迫りましたが、ほとんど明確な答えをいただけず、未だに気持ち悪いままであります。こういった前例が増えていきますと、そもそも法治行政の原則はどこへ行ってしまうのか・・・という懸念が今もございます。私が原子力安全委員会の委員だったとしても(そんなことはありえないですが)、原子力の安全性に関する指針を策定する前提として、まずは浜岡原発を停止しなければならない根拠を明確にして議論することを考えると思います。そのあたりがあいまいなまま議論は進められないと思うわけでして、やはりこのあたりのことに「いちゃもん」をつけたい法律家が(私以外に)存在したことに少し安心をいたしました。

こういった問題も、時間の経過とともに忘れられてしまうのでしょうね。

7月 27, 2011 行政系 |

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コメント

最近、日本の制度が、どうあるべきなのか、考えますが、勿論、簡単に分かるわけはないのですが。

多くの法は、細目については、政令、省令、大臣通知等政府の決定に委ねている。府省庁も、決定をするに辺り、多くの関係者の意見を聴取して、法に定められた意図に従い、合理的にコンセンサスを得つつ進める。基本的には、このようなことで、日本の制度は、うまく機能していると理解する。

商業用原子力発電所の運転に関しても、電気事業法に定めがあり、定期検査(54条)等が経済産業省令に従い、実施されることが定められている。一方、経済産業省令もそれほど細かくは規定されておらず、原子力安全委員会の安全指針等にも基づき運用されていると理解する。規則を作る機関と規則に従って検査の内容や合否を判定する機関(経産省)は、一応は分離された形であると思います。

もともと、原子力委員会と原子力安全委員会は、何であり、機能をしていたのかが一番問われなくてはいけない部分だと思います。いっそのこと、原子力安全委員会を、内閣府から切り離し、会計検査院のように内閣の外に設置することも可能ではあると思います。しかし、その場合、機能できるのかとの疑問を持つ次第です。

投稿: ある経営コンサルタント | 2011年7月27日 (水) 12時22分

他方、「法律守って国滅ぶ」になったら困るわけで。

そうとう以前、昔の時点からボタンを掛け違えてきたその積み重ねの上に、我々は生きているわけで、法を守ってないからおかしいとか、法自体がおかしいとか、そういう議論そのものが虚しいんですがねえ…

政策が、政治が(行政府も立法府も)間違えてきた場合、ある部分を切り離してその是非を問うことは果たして意味があるのでしょうか。

「戦争(敗戦)責任問題」と、構造がよく似ているような気がします。

「国民(議員を選んだ有権者)皆んなが悪い」は何の意味も無いし、さりとて誰かをスケープゴートにすれば事が解決するわけでもありません。

投稿: 機野 | 2011年7月27日 (水) 23時17分

私は、やはり行政指導を行うに当たっては、きちんとしたプロセスを経るべきであったと考えるところです。
一方的に記者会見によって、世論喚起を行い、行政指導に「事実上の強制力」を持たせるがごとき、今回の手法は危険にすぎます。
その発想は、国民主権を名目的にしか理解しない発想であり、大多数の国民が正しいと言っているから良いのだ、という「多数決主義的民主主義」であり、少数者の意見を尊重する「人権擁護の手段としての民主主義」ではないと思います。

機野さんの「法律守って国滅ぶ」の発想は、それを念頭にいろいろ考えるのは良いと思うのですが、端的にそれを実現することは、戦前に学習して排除してきたものだと思っています。
(言い変えると「お国のためなら法律は排除される」ということですので、危険度がよくわかると思います。)

努力すべきは「国滅ぶような法律は改める」であって、法律を改める手間を惜しんではならず、その手間は「民主主義のコスト」であると思います。そのコストを惜しんで、国民大多数が効率的権力行使を希望するとき、民主主義が専制を生む矛盾となって、自らに刃を向蹴ることになると思います。
こういうと、「現代日本にありえない」との反論が必ずあります。戦前の戦争に向かうファッショが生まれることは確かにないでしょう。
しかし、違う分野の独善は生まれる余地が十分にあると思います。
今回の原子力問題もそうでしょう。
「原子力は危険だ」→「排除すべき、脱原発だ」ということであっても、だからと言って現在、原子力に従事している人の生活権が一方的に侵されるような形で進めてよいか、という問題はあります。
「国が滅ぶよりまし」という意見は、自分が排除される立場にないから言える言葉であり、多数者意見を少数者に押し付けているだけだと自覚すべきでしょう。

確かに現在の政治がまともに機能しているとは思えませんが、だからと言って政治的過程を排除することは危険であり、民主主義のコストは最小化すべきでしょうが、コスト負担を嫌ってはいけないのではないでしょうか。

今回の要請、行政指導であれば、公表措置・報道発表は通常、不利益処分の代表格ですので、すべきではなかったと思います。
水面下で要請することであっても、原子力分野の国の権限の大きさを思えばすべきではないのでしょうが、最低限、公表による事実上の強制力を生じるかの行動は慎むべきであったし、この行動を支持する国民の意見、態度は、その刃が自分に向けられてもその態度を維持できるか、自問すべきであると思っています。

みんなが悪い論は解決になりませんが、みんなできちんとしたプロセスに変えていくんだ、という努力を惜しむことこそ危険ですし、それこそが国民の責任であると思います。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年7月28日 (木) 10時47分

「場末のコンプライアンス」さんのご意見に全面的に賛成です。民主主義のコストを惜しむのは,民主主義という概念を真に理解していないからだと思います。

投稿: さこ | 2011年7月28日 (木) 16時09分

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