法律関係者がイマドキのコンプライアンスを語る理由
九電やらせメール事件やユッケ食中毒事件など、最近の企業コンプライアンスに関わる問題を考えているときに思うのは、法律家(法律関係者)がコンプライアンスを語る理由であります。最近は法令遵守だけでなく「社会的要請に柔軟に応えること」こそコンプライアンスの要諦である、と様々なところで語られるわけでありますが、そうであれば特に我々法律家がコンプライアンスを語る必要性はどこにあるのだろうか?もし必要性があるとしても、どのような視点からアプローチすべきなのか?とくに法律家でなくても、リスクコンサルタントの方々にこそ語る資格があるのではないか、と思うわけであります。先日、ある方が当ブログのコメントにおいて、そもそもコンプライアンスは法務部の仕事ではなく、もっと広い分野にまたがる課題である、といったご指摘をされましたが、これも同様の問題意識によるものではないでしょうか。
コンプライアンスを古典的に「法令遵守」と訳すのであれば、たとえば具体的な企業活動にとって、どのような法律が関連しているのか、またその活動は当該法令に違反したものではないのか、といったことがリスク管理の中心となるわけで、これは法律家の判断が必要な場面であります。とりわけ最近のように海外展開を必須とする企業の活動においては現地の法令に関する知識なども不可欠ですから、そういった要請は高いものであります。
しかしコンプライアンスを「社会的要請に柔軟に対応すること」といった最近よく聞かれる定義を前提とするのであれば、たとえ法令に違反するような企業行動はなくても、企業の社会的信用を毀損してしまうような行動は慎まなければならないわけであり、これは果たして法律とどのような関係にあるのか、ということを検討する必要がありそうです。「法令」にはハードローだけでなくソフトローも含まれるとするにしても、それだけで企業の社会的信用が毀損されるリスクをすべて網羅できるかというと、そうでもないように思われます。なぜなら企業が対応すべき社会的要請なるものは、法やソフトローのような普遍的かつ恒常的な規範を示すものではなく、もっとうつろで、属人的かつ一時的なものだからであります。結論から申し上げると、私は経営判断におけるレピュテーションリスクへの配慮、ということが法律家の視点からみるアプローチではないかと考えております。
たとえば金融庁による金融機関に対する規制のなかで、利益相反取引に該当するような行動を禁止するものがありますが、そこでは親会社の立場にある金融機関に対してグループ全体の利益相反取引禁止体制を求めています。そのなかで、「社会的評価又は金融市場における信用が傷つくリスク」と定義され、グループ企業としてのレピュテーションリスクへの配慮、ということが明記されております。利益相反取引によって顧客の利益が害される場合だけでなく、そういった企業行動が企業の信用を傷つけることに留意せよ、ということを示すものであり、ある程度は世間の空気にも配慮した経営というものも規制の対象となることを示したものといえます(ただし行政当局自身が、金融機関にとって「どの程度レピュテーションリスクに配慮すべきか」ということを具体的に指針として示すものではなく、これはあくまでも個々の企業の経営判断のなかで考慮すべき、としています)。
また司法の分野においては、経営判断においてレピュテーションリスクを十分に斟酌しなければならない、といったことに触れた裁判例はあまりありませんが、著名なダスキン高裁判決においては、社内の不祥事を公表しなければバレない、といった役員らのリスク認識を批判したうえで、直ちに自主的に公表することによる信用回復を図る必要性を認め、また損害論ではありますが、後日不祥事が発覚することと、直ちに自主的に公表することでは会社の損害額が異なることを前提としております。つまり取締役会における企業の意思決定が、たとえ法令違反ではないとしても、当該企業の社会的信用を低下させるようなものであれば、本来斟酌しなければならない事情を十分検討していなかったこととして取締役や監査役らの善管注意義務違反が認められる可能性があるのではないでしょうか。
社会の空気が常に正しいものではなく、企業活動が不適切なものではない、ということを経営陣は社会に説明すべき場合もあるかとは思いますが、社内の誰かが「社内の常識と社外の常識のズレ」に気づかなければ、レピュテーションリスクへの配慮がないままに、企業の社会的信用が毀損されてしまうことは、どこの企業でもありうる話かと思います。コンプライアンス軽視の企業体質が、そのまま経営トップの法的責任に結び付くことが考えられる以上は、やはり法律家がコンプライアンスを語る理由はあるだろう・・・・と思う次第であります。
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コメント
法律家がコンプライアンスを語ることは非常に重要だと思っています。
http://yamaguchi-law-office.way-nifty.com/weblog/2011/06/post-57bb.html
上記の記事で、以前に私はコメントしたことがありますが、今更ながら眺めてみると、甘い記載だなと思っているところです。
上記の記事のコメントで、「法律面は顧問弁護士でも法務部でも支援を得ればよく、法律に「染まらない」ことも重要だと思っています。(自戒をこめて。)」としていますが、これは「企業内における立ち位置」のことであり、組織論としての意味合いを多分に含んだものでした。
その点の言及がなく、今回の先生の記事を読むにつけ、誤解を招きやすいと思いました。
コンプライアンスについて、組織論として法務関連と分断することは重要であると思っているのは変わっていませんが、それが独善、誤解、誤謬、いろいろな理由で結論を過つ、もしくは結論に至る理由を過つことは十分にあることですし、その結論が正しいとしても、社内外に対して納得性のある根拠を示すことが重要です。
その時に、やはり頼ることになるのは、法務関係者ということではないでしょうか。
理想ですが、「素人」であるコンプライアンスが、「プロ」である法務関係者、現場関係者、その他利害関係者の意見を聞き、社会に関する情報収集を行い、それらを踏まえ経営陣に意見具申する。
経営陣は、そのフィルターを通した意見と、直接に法務関係者、現場関係者、その他利害関係者の意見を聞き、多角的に検討を行い、結論を出す。
まぁ、個人的な理想形です。
投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年7月25日 (月) 11時02分
いつも興味深く拝見しております。
書生的な感覚の議論で失礼かと存じますが、コンプライアンスと法的責任についてどう考えるべきなのでしょうか。
例えば九電の説明会事件ですが、指示した元副社長は違法行為として刑罰の対象になるのでしょうか。また、会社の信用を毀損し、原発再稼動を遅延させた(これは他の要素もあって実証が難しいでしょうが)、株価の下落も招いた、として株主代表訴訟の標的になるのでしょうか。個人としては元副社長の指示は言語道断と思っていますが、法的責任言い換えれば究極的には司法の場での責任を追及されるのでしょうか。
更に言えば、企業の法務部門や弁護士は、司法の場での決着に及ぶという狭い意味の法的理解や解釈を越えて、同義的コンプライアンスに専門性を持っているのか、あるいは持つべきなのでしょうか、もし持つべきとしたらその基準なり基礎は一般常識を超えて何があるのでしょうか。教えていただければ有難く存じます。
投稿: O.S. | 2011年7月25日 (月) 14時35分
レピュテーションを形成する要素は、理と情ではないかと考えています。あるときは理が前に出て会社の評価をし、またあるときには情に基づいて断罪してしまうということです。ですから理に基づく評価に対応する法的な検討は必要ですが、合わせて感覚的な情の面からの予測も必要ではないかと考えています。BtoBとBtoCで比重は異なるでしょうが、標準的な事務分掌で言えば、法務部と広報部の融合が必要ではないかということです。その後ろにいるのが弁護士とリスク管理アドバイザーなどだと思いますが、弁護士は毎日が修羅場で鍛えられておられるのですが、コンサルタントの中には、修羅場の実経験がそれほどない方もおられます。それで机上の話になってしまう危険性には注意が必要のように感じます。
それとぜひ先生のお考えをうかがいたいのですが、何か起こった場合の開示方法で現在混乱が見られます。それは誰を社会への情報開示の仲介役としてお願いするかということです。以前は主に新聞・テレビがこの役割を担ってきたのですが、記者会見オープン化の流れの中で、会見に出席する記者の範囲が広がってきて、際限がなくなっています。制限をすれば差別と言われ、永遠と続く質問のレベルも玉石混淆です。
その結果、東電の例に見られるようにコントロール不能状態になってしまいます。そもそもが企業側に負い目があるような場合なわけですから、質問には丁寧に答えようとするならば、時間無制限です。多くのマニュアル本は新聞・テレビ世代の筆者が書いているために、ネット時代のメディア状況を踏まえていません。しかもレピュテーションリスクの発信元としてはネットなどのニューメディアを無視することはできません。動画による同時生中継やツイッター中継といった新しい媒体とどう向き合えばいいのだろうか、という問題は企業にとって大きな悩みになっていると思います。
投稿: tetu | 2011年7月26日 (火) 09時08分
皆様、ご意見ありがとうございます。
基本的に、今回のやらせメールについて私は違法行為に該当するものではないと考えております。すくなくとも取締り法規に反する行動ではないと思います。だからこそ、たとえ違法ではないとしても、著名な大企業の社長さんが辞任しなければならない・・・というのは、コンプライアンスを考えるうえで非常に興味深い事例かなと考えます。
TETUさんの問題提起は斬新なものでありまして、私も現在、持ち合わせている見解はありません。一度エントリーのなかで検討してみたいのですが、記者会見の仕切り方が以前と比較しても重要なものであることを再認識いたしました(ありがとうございます)。
投稿: toshi | 2011年7月28日 (木) 00時43分
そのうち、こんな方法が出てくるのでは。。。との予測、推測です。
・youtube,ustreamといった直接的な記者会見
・twitterによる直接の質疑応答
これらは伝統的なマスコミに対する不信が増幅すればするほど、導入される可能性が高く、かつ、誤解を生じにくい方法となるでしょう。
この方法であれば、マスコミが記者会見を求める際に使う、「国民の知る権利」という常とう句は、マスコミの専売特許ではなくなります。
マスコミによる記者会見の独占がなくなり、これまでのストレートニュース的なマスコミの対応では、付加価値がなくなり、存立が危ぶまれることとなでしょう。
マスコミはストレートニュースから脱却し、分析、評論に軸足を移して、いわゆる中立報道原則を捨て、自身の立場を明確にした「ジャーナリズム」にならない限り、見捨てられてしまうと思います。
それが民主主義の存立を脅かすことになる、という既存マスコミの主張は、当面正しいと思いますが、情報リテラシーの低い現在の高齢者層から徐々に世代交代することで、ネットメディアがその代替を行うこととなり、新たな地位を占めることになると思います。
その時にネットメディアの一部を、既存マスコミの変形、生まれ変わりとして維持される部分も出てくると思います。
投稿: 場末のコンプライアンス | 2011年7月28日 (木) 11時04分