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2011年8月20日 (土)

「経営判断原則」に関する最高裁のスタンス

川井信之弁護士のブログにて、経営判断原則に対する最高裁のスタンスについて と題するエントリーがアップされましたので、興味深く拝読いたしました。私のブログにもコメントをいただいておりますが、当職おすすめの松本論文をきちんと読まれたJFKさんや川井先生の秀逸なご意見に感化され、私も少しだけ考えたことを補足しておきたいと思います。

もう25年くらい前になりますが、私が司法試験受験生だったころ、商法の基本書に出てくる「経営判断原則」なる、なんとなくカッコいいネーミングの論点と出会い、今に至るまで、そのイメージがそのまま頭のどこかに残っております。(そんなカッコいいイメージの論点というと、他にも民法の「物権変動の公信力説」とか刑訴法の「違法収集証拠排除原則と毒樹の果実」、行政法の「行政裁量収縮論」、手形・小切手の「創造説」など、いろいろあったような。そういった論点を知らないと司法試験に合格できないような、そんな錯覚に陥っておりました 笑)そんなイメージが残っていたためか、つい最近まで、私もア・プリオリに裁判のうえでも当然に「経営判断原則」が適用されているような気がしておりました。

では、実際の裁判で「経営判断原則」がそのまま適用されているかというと、どうもそうではないのですね。たしかに「経営判断原則」らしきものが判断基準として適用されているようには思えるのですが、とりわけ最高裁では こちらのエントリーでご紹介しました刑事裁判で1件だけ、そのような原則があることだけは確認されましたが、判断基準としての「経営判断原則」を適用することには、これまで躊躇しているように思えます(先にご紹介した拓銀事件最高裁判決でも、裁判所は「経営判断原則」の要件等については何ら述べられておりません)。まさに川井先生がおっしゃるように「最高裁は引き気味」のようです。なぜ最高裁は「経営判断原則」の適用に躊躇するのか、実は私も裁判官から聞いたわけではないのでよくわかりません。ただ、日本システム技術事件やアパマンショップ事件ヤクルト事件などから、なんとなく思いつくのは以下のようなことです。

コメント欄にも書きましたが、やはり最高裁の役割からすると、こういった一般的な判断基準を持ち出すことには抵抗があるのではないでしょうか。「大審院」の時代の判例が、いまもたくさん生き続けているように、最高裁判例はその後、何十年もの間、裁判規範として生き続けるわけですので、将来の最高裁判決にも多大な影響を及ぼすのであります。したがって、先例判決と法の解釈によって妥当な判断を下すことができるのであれば、とくに一般的な判断規範を呈示せずに紛争を解決する方向性こそ穏当な裁判所の在り方かと思われます。将来の最高裁に余計な拘束をしない、社会の要請に従って適切な判断が下せるように、というスタンスだと思います。

つまり取締役の任務懈怠→債務不履行責任(委任契約上の「なす債務」)→不完全履行(善管注意義務違反)+帰責性(故意・過失)という大原則から出発して、要件事実論をどう組み立てるのか、事実認定と規範的評価をどう考えていくか・・・ということで考える、その考え抜いた結論としての「判決」の集積が、たまたま「経営判断原則」といわれるアメリカの理論を適用するケースと近くなっている、というあたりが正しいのではないでしょうか。

それともうひとつ、これは先日の大阪地裁商事部の部総括判事さんが(夏期研修で)おっしゃっていたことを参考にしておりまして、誠に恐縮なのですが、最近の取締役の善管注意義務違反が問題となっている最高裁判例の多くが高裁と逆の結論に至っておりますが、そのほとんどすべてが「事例判決」ということであります。どの最高裁の判決文を読んでも「以上で認定した事実関係のもとでは」とかならず条件が付記されています。つまり事実関係が少し変われば結論も変わるかもしれません、ということです。このあたりは判例を読むときにとても注意をしなければいけないところでして、ロースクール生にも注意を促すところです。学部生は「判例百選」でもいいのですが、ロースクール生は判決全文を読むべきなのは、ここにあります。ブルドックソース事件の最高裁決定文を読んだときにも思いましたが、商事事件の紛争解決として、最高裁は「認定した事実関係のもとでは」ということを強調して、敵対的買収防衛策の適法性要件といった「一般的な規範の定立」をできるだけ回避しようとしているところがありました。村上ファンド事件判決も、「重要な決定事実の実現可能性はどの程度か」といった、条文に書いていない規範を定立することなく、刑事裁判の基本である罪刑法定主義のもとでの金融商品取引法の条文解釈(条文相互の論理解釈)と先例(日本織物加工事件最高裁判決の引用)のみで裁いているにすぎません。「経営判断原則」という一般的な規範定立も、それが企業社会や下級審で誤解されずに適用されればよいのですが、誤って適用されることによる企業社会の混乱はできるだけ避けたいのであります。それよりも、個々具体的な経営判断事例ごとに、事実認定と規範的評価が繰り返され、善管注意義務違反(不完全履行)の判断過程が明らかになるなかで裁判例が集積される---そのこと自体に、規範定立と同じ役割が(最高裁によって)期待されているのではないか、と考えています。

それにしても、実に先日の大阪地裁商事部の松田判事の研修は有益でした。実務家が取締役の善管注意義務違反を争う場合に大切なこと、たとえば取締役の「いつの時点」の行動に焦点を当てるのか、それは主張する「損害」と相当因果関係にあるのか、問題とするのは平時の行動か有事の行動か、取締役の人的属性についてはどうか、同じ損害額でも企業規模によって差が出るのではないか、不必要に被告を増やして論点がぼやけていないか等々、「なるほど」と思うところが多かったです。また、「事実認定と規範的評価、どっちで勝敗の差がつくのか」とか松本弁護士の論文のように「専門訴訟の判断については、他の司法審査の在り方を検討すべきではないか」といった話もおもしろかったです。しかし一番おもしろかったのが取締役の善管注意義務違反を争う場合の要件事実論だったのですが、少し長くなりましたので、またそのあたりは福岡魚市場株主代表訴訟の高裁判決が今年10月か11月ころに出るように聞いておりますので、またそのころに高裁判決への感想とともに述べたいと思います。(学者や法曹関係者の皆様であればご存じかもしれませんが、善管注意義務の要件事実と帰責性(過失)の要件事実との関係について、松田判事も疑問を呈しておられましたので「やっぱりなあ」と安心いたしました。ただし松田判事ご自身の私見も述べられておりました)。

8月 20, 2011 商事系 |

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コメント

本エントリーと関係無い内容で恐縮なのですが、まんべくん騒動に関して、地方自治体のコンプライアンス上、どのような点が問題になるのでしょうか?


町側は「業者が勝手にやったこと。俺達関係無いよ」的なスタンスのようですが、民事上の使用者責任のようなものは認められないのでしょうか?


無礼だとは思いつつ、コンプライアンスの専門家であるToshi先生の意見を伺いたく質問してみました。
不快でしたらスルーして下さいm(__)m

投稿: たなか12号 | 2011年8月20日 (土) 10時25分

初めて書き込みをさせていただきます。

経営判断原則という言葉は、取締役の責任追及の文脈において、当該原則が適用されるか否かといった形で登場いたしますが、日本法について議論する時にこの言葉を使う意義がよく分からない(むしろ、使わない方が良いのではないか)という悩みをずっと持っております。

といいますのも、我が国の下級審裁判例において表現されている「経営判断原則」は、判断過程のみならず「判断内容」の合理性をも問うものですので、米国におけるそれとは内容がかなり異なっており、また合理的な過程を経て不合理ではない判断を行うことは、取締役の債務そのものではないかと思います。

むしろ、経営判断原則が適用されないとした場合の司法審査基準というものが、判断過程や判断内容の合理性から離れて存在するようにも思えません。(私の疑問は、ほぼこの点に尽きまして、経営判断原則の「適用」された場合の効果と、手段債務の不履行の判断に一般論としてどのような差があるのかよく分かりません)

後知恵による評価を排除する必要がある、ということが裁判所によって一定程度受容された現在、経営判断原則という言葉を軸にした議論よりも、当該状況における取締役の債務とは何かを端的に考えることが重要ではないかと思う次第です。

投稿: うなぎ | 2011年8月20日 (土) 18時36分

裁判所が経営判断原則という言葉を使わないのは自然なことで、疑問に思ったこともありません。裁判所の判断枠組み(群)を表すためのテクニカルタームにすぎないと思っています。だから、言葉に引っ張られて、アメリカのそれと違うとか、日本には思想としての経営判断原則は存在しなかったといった議論をするのはあまり意味がないと思います。
日本版経営判断原則(判断枠組み)の意味で使う場合とアメリカのそれとして使う場合があり、人によって前提としている意味合いが異なるためか、議論のすれ違いを感じることがよくあります。
日本版は、伝統的な裁量統制の手法とアメリカ流の政策的配慮も参考に日本独自に存在してきた判断枠組みをさすテクニカルタームである。ただ『原則』という性質のものではないため、裁判所が経営判断原則と言わないのは当たり前。そういうことではないでしょうか。

論考や議論のなかでは、文脈上定義さえされておれば、テクニカルタームとして普通に使えばいいと思いますがね。

投稿: JFK | 2011年8月21日 (日) 01時57分

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