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2011年8月11日 (木)

九電やらせメール事件(関係者の解任と証拠隠滅工作)

仕事中なので、備忘録程度ですが。。。

本日(8月11日)あたりの朝日、読売ニュースでは原子力発電本部に近い幹部社員(執行役員?)2名の方々が、関係書類を破棄した(もしくは破棄を指示した)等の理由で、近く更迭されることが報じられております。本来ならば、第三者委員会の報告内容をまって処分を検討する予定だったものが前倒しで処分を行う、というものだそうです。

内部告発があって、証拠隠滅工作が発覚したものも一部あるようですので、善解すれば「第三者委員会の指示には全面的に協力するように」との経営トップの真摯な意思を表明したものとして、九電本部の自浄能力が発揮された場面のような気もします。しかし、うがった見方をすれば、「すでに九電のポジションがなくなってしまう人たちが、第三者委員会のヒアリングにアレコレと正直に話すことを回避するためでは?」とも推測されるわけで、このあたりはマスコミでは一切報じられておりません。後者であれば、まさに九電ぐるみでの証拠隠滅工作ということになります。

解任処分後も、関係者が第三者委員会のヒアリングに協力することが確約されているのであれば問題ありませんが、解任によって第三者委員会のヒアリングができない・・・という事態となると、これはまた大問題となるような気がいたします。そのあたりが一番知りたいところです。

8月 11, 2011 未完成にひとしいエントリー記事 |

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コメント

第三者委員会には、深度ある報告書を期待します。
個人的には、岡本教授のような専門分野の先生が委員をされていることに注目しています。

大学では三大不人気科目ですが「倫理」「論理」「心理」が重要となっていると感じます。「仏作って魂いれず」では、いくら内部統制を整備しても有効に機能しないでしょう。

投稿: 迷える会計士 | 2011年8月12日 (金) 13時09分

迷える会計士さん、お久しぶりです
私はたとえ不人気でも、倫理は重要だと考えています。
なぜなら、本気で会社が「倫理」を考えているかどうかによって、内部通報の質が変わってくるからです。
倫理、論理、心理といったあたりは決してすぐに実績が出るようなものではないかもしれませんが、社長が交代しても常に研修の対象とすべきものだと認識しております。

投稿: toshi | 2011年8月15日 (月) 02時11分

 また斜めからの視点かもしれませんが、第三者委員会は本当に正義のヒーローという位置付けでいいのだろうか、という疑問がぬぐえません。極端に言えば、悪人の巣窟に乗り込みバッタバッタと悪を暴けば大向こう受けはいいでしょう。
 犯罪捜査なら立件すれば一件落着かも知れませんが、組織は生きていくための方策を模索する中で自ら第三者委員会を設置したのではないでしょうか。膿があるなら出し切って再生していこうと考え、“外圧”にその助力を求めたように思います。
 しかし、その膿が組織全体をむしばんでいるなら、どうなるのでしょうか。つまり根が深い場合です。第三者委員会のメンバーが根本原因と考えたことに切り込んでも、その組織だけではどうしようもないことがあるように思います。
 今回のことは九州電力だけの問題なのでしょうか。やらせメールだけ、資料の廃棄だけをとらえれば九電の組織内だけの問題かも知れませんが、世間が問うているのは原発設置の当事者側が設置推進に向けてアンフェアな工作を行っていたことではないでしょうか。そしてこれは九電だけの話ではないと大方は感じているはずです。それをやらせメールだけの“捜査”をしてみても何ほどの価値があるのでしょう。
 どうも不祥事によって生じたレピュテーションの低下を回復する「通過儀礼」として第三者委員会というシステムが考案されたのではないかとすら思えるのです。本来不祥事から組織が立ち直るには、組織自らが血を流す努力をしなければ不可能のように感じています。もし本気に九電が“ムラ”と決別してでもフェアな組織に生まれ変わるというなら、一過性の第三者委員会ではなく、長期的な外部組織などを設けることが必要ではないでしょうか。長年の慣行や文化風土が絡む場合には外科手術ではどうしようもないように考えています。

投稿: tetu | 2011年8月15日 (月) 21時45分

繰り返しになりますが、やはり、汚辱にまみれた問題企業が甦るには「このままでは間違いなく倒産する(或いは、もう倒産してしまったが再建しなくては)」という究極の“動機”が必要なんだと思います。

そうですねえ。絶望の中で敢えて提案するのなら、

「取締役の半数以上を外部役員にする」
(但し、他の電力会社や元官僚や重電メーカーの人間などは明確に除外する)

「その外部役員のうち、その三分の二以上を外国人とする」

…ぐらいでしょうか。

そのためには、法律を改正し、株主の権限よりも強い立場で、これを電力各社に強要する必要がありますが、

ま、やっぱり絶望的、、、ですな。

投稿: 機野 | 2011年8月16日 (火) 00時19分

第三者委員会の在り方については、最近のつかわれ方に少し疑問を持っています。社会的な認知度が高くなると、その反動として「?」と思う委員会もときどき出てくるわけでして、少し検証が必要になってくるかもしれません。私自身も関与しているものがありますので、またご紹介できる時期にアップしようかと考えております。

投稿: toshi | 2011年8月18日 (木) 22時31分

あまりこの問題に言及すると、最近の大政翼賛会的風潮から、個人情報のさらしも含めて、どうなるか分からないので、コメントを控えておりましたが、あまりに偏向的に感じますので、一言。批判は甘んじて受けますが、あくまでも議論のレベルでフェアにお願いします。あまりに非難・批判が集中して、もう何もコメントできなくなるかも知れませんが。


東電問題も九電問題も、全ては原子力政策をどうするかという本来、政治の議論としてなされるべき問題を、いち企業の問題として世間みんなでパッシングしているように感じています。化学物質が絡む場合は、過去にもダイオキシンや環境ホルモン、各種発がん性物質の取り扱いを巡って、過剰反応がなされたケースも少なくありません。

この、本来議論すべきフィールドと外れて、世間の感情で極端に動くという傾向は、わが国ではしばしば見られ、今は、某テレビ局への愛国的パッシングにもその兆候が見られます。古くは、死刑判決や刑事事件の量刑を巡って、本来立法で解決すべき法定刑の問題を、裁判批判や裁判官の資質・閉鎖性の議論に摩り替えて、裁判員制度の導入という風潮を形成していったということもありました。


この問題の本質は、原子力発電に対する賛否はともかくとして、賛成意見が堂々といえない、また根回し(=政治や民主主義では当たり前の組織票)が堂々とできないというある意味不健全な社会情勢が根底にあり、だからそれが表ざたになったらまずい(パッシングを受ける)から隠す、これはある意味必然の道理だと私は考えています。

理想論としてのコンプライアンスを言えば、隠蔽自体が問題なのかも知れませんが、上記のような社会情勢にあわせて、非難されないように行動するのも、社会的要請への適合なわけです。組織心理学や人間の心理を無視したコンプライアンス妄信には疑問を抱かざるを得ません。もともと郷原先生とは大きな方向性は同じなのですが、基点が違うと感じていましたが。闘うコンプライアンスの一局面でもあるのではないかと私は考えています。


確かに、東電にしろ、九電にしろ、組織的に問題があることは否めませんが、電力会社の主要事業である電力事業及びその収益基盤を失うかどうか、突き詰めれば、社員一人ひとりの生活や生命がかかっているからこそ、彼らにのみ責任を押し付けるべきではなく、政治の問題として、まず原子力発電をどうするのかきちんと議論することが先決だと思います。

原子力発電=放射能=悪で、賛成意見を封じ込めようという社会の一方的な世論誘導こそが、問題だと思います。確かに放射能の健康リスクは見逃せません。しかし、同じく発がん性を有するタバコについては、巧く分煙の状況が出来つつあります(喫煙する方にはやや可哀想な状況もありますが)し、レントゲン撮影や放射線治療、ラドン温泉など他の放射能の問題は議論されないにも関わらずです。エコナ問題も根底はこの「発がん性」が要因となっていたわけですが、やはり世間が過剰に反応しすぎた感が否めません。


電力会社は、原発の問題にYESの解答を出してもNOの解答を出してもたたかれます。「原子力村」という仮想敵が出来上がり、十分な議論や代替策も煮詰めないまま(代替エネルギーだってどんな危険があるかすら分かっていない)に批判している現在の社会状況では、企業としてはリスク管理も、危機管理もコンプライアンスも、結果的に見れば失敗しかない状況といえるでしょう。

ビジネス法務で著名な某先生が東電のメディア対応を批判した本を出されていますが、あの問題は一企業ができる危機管理の次元を超えています。
安全委員会と保安院という利害の異なる省庁の利害調整を踏まえていかなければならないのですが、さらにその先に原発の可否という大きな政治問題を抱えています。物資としては危険性を有しているわけですから、何か事故がおきれば、危険というイメージが一人歩きし、安全といえば嘘だとなるし、危険だといえばその責任を問われる。答えようがない。原発の耐震強度不足の責任や原発推進してきた自民党の責任を全く問わずに、人知の及ばない事故対応のミスばかりを批判する。全く本質がずれているとしか感じられません。


是非、企業の責任問題として片付けるのではなく、政治の問題は政治の問題として、きちんと健全な形で議論・検討されることを望みます。


投稿: コンプロ | 2011年8月23日 (火) 01時21分

コンプロさまのお書きのこともよく分かりますが、
しかし、話を大きくしすぎて、問題が拡散しぼやけてしまうキライが
あるように思います。つまり、それだと結局問題は何も解決しない…

自民党、政治の問題といってしまうと、(そりゃそうなんですけど)
日本人論、文明論までいってしまいますからね。

投稿: 機野 | 2011年8月23日 (火) 06時07分

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