企業不正の予防・発見はガバナンス+ヘルプライン
新聞報道等によりますと、いよいよ明日(12月6日)、オリンパス社の第三者委員会報告書が提出されるようで、同社を巡る諸問題もいよいよ今週から動き出すような気配であります(産経新聞ニュースはこちら)。
先週(11月28日)、私も参加しております関西CFE(公認不正検査士)研究会にて、大手監査法人の会計士の方から財務デューデリ(DD)における不正調査の実務について発表をいただく機会がありました。実際に会計士の方が取り扱った事例を参考として討議が行われましたが、非常に興味深かったのが相対取引におけるターゲット会社(買収対象企業)へのノンアクセスDDによる見込み(予測)とフルスコープDD、クロージングDDによる結果判定との関係でありました。
成約に至った事例、至らなかった事例などを参考に(もちろん会計士さんの守秘義務に反しな範囲ですが)検証をしましたが、結果からみるとノンアクセスDDの段階で予想していた問題点が、後日「予想どおり」の判定結果となるケースが多いなあと。監査法人の変更、役員の度重なる途中変更、兼業状況、役員の横のつながり、M&A仲介者の売り込み方法や仲介者自身の素性、その他勘定科目の選択などから「怪しい」と思える会社は、やはり後日ターゲット会社自身から入手した資料によるDD結果とほぼ異ならないようです。
ただ、その会計士の方もおっしゃってましたが、「あくまでも外から企業を審査するだけでは結論は出せない」とのことで、企業の不正を外から判断するのは、いくらその道の専門家でも限界がある・・・というのが実際のところであります。
ある雑誌の取材を受け、私は「経営者関与の企業不正の予防や発見はガバナンス+ヘルプラインがセットで機能しなければ困難」と述べましたが、最近のオリンパス社や大王製紙社の不正事件に関する報道に接し、そのように強く感じます。
先週、朝日新聞「法と経済のジャーナル」に、大王製紙元顧問(創業者一族の方、元会長の父)のインタビュー記事が掲載されておりましたが、すでに当ブログでも書きました通り、本社在職の「勇気ある社員」の方の活躍がさらに明確に表現されておりました。元顧問が息子である元会長を叱責するきっかけとなったのは、この社員の方が子会社担当者に対して「なんであのこと(子会社が元会長に無担保で金を工面したこと)を言わないんだ」とお尻を叩いたことがきっかけだったのですね。
ただ残念ながら、元顧問はそれ以上に元会長を追い詰めることはなかったのでありまして、その後の当該社員による「内部通報伝達ルート」を無視した行動(内部通報があったことを、ダイレクトに社長に伝える)に出て、社内調査が開始される、ということになります。
またオリンパス事件についても、こちらも前に書いたとおり、会員制経済誌に内部告発をしたオリンパス社員が存在し、これがきっかけで経済誌のスクープとなるわけですが、このスクープをとりあげた元社長が厳しく経営陣を追及したことで大きな問題になりました。
いずれの事件も、その発端は社内の一部「勇気ある」社員による情報提供行為でありますが、重要なのは決してそれだけでマスコミが報じるほどに大きな問題には発展していないことであります。どちらも社長、元社長といった役員クラスの者が、この情報に触れ、本気になって解決するために動くことがあったからこそ、マスコミが取り上げるに至ったのであります。ジャイアンツの件も、清武氏が反乱を起こしたからこそマスコミが取り上げるのでありまして、一社員が「コンプライアンス違反」と主張しても、相手がナベツネ氏である以上、記者会見の場も提供されないでしょうし、大きく報じられることもないはずです。この「不正発覚の起爆剤」がなければ企業は内部通報や告発があっても、首尾よく逃げ切れるチャンスはあるわけで、マスコミも一部社員が動いた程度では積極的に事件解明に動き出すことは少ないと思います。
このように考えますと、やはり企業統治(ガバナンス)は重要であり、その牽制機能は発見にも、また予防にも必要だと思います。
不祥事報道が続きますと、よく「一番問題なのは経営トップの倫理観」と言われますが、もちろんそのこと自体は正しいとは思いますが、ただ思考停止の原因にもなります。今年のベストセラー「人事部は見ている」の著書である楠木氏も、本書のなかで「社長は絶対服従の者をボードに置きたがる。過酷で重大な経営判断を下す場面において、もっとも信頼できるのは、自分に絶対に服従してくれる部下だ」という考え方を否定されていません。人は情実と倫理が相反する場面において、果たして情実を抑制して倫理で物事を判断できるほど高貴でしょうか?ほとんどの方が「こんなに孤独で厳しい状況のなかで、社員の生活を背負って経営判断を下すのだから、これを後押ししてくれる人たちを腹心に据えて何が悪いのか」といった正当化理由によって、倫理よりも情実を優先するのではないかと。いや、この場合の「倫理」というのは、「後日解消できる程度の悪事に手を染めることは、何千、何万の従業員およびその家族の生活を支えるために必要な事であり、むしろこれをやらないことのほうが倫理に反する」という理屈も出てくるのではないでしょうか?「正義」と同様、この「倫理」という言葉も相対的、配分的なものであり、とても危険な印象を抱きます。どんなに立派な教育を受けても、「平時の倫理と有事の倫理は違う」といった意見に流されるのではないでしょうか。
たとえば今、オリンパスの法人としての責任と損失隠しを主導した役員の責任問題を切り離し、「主導者=とんでもないワル」といったイメージで語られている気がします。しかし、この方々が、どうしてそのように立ち回れねばならなかったのか、おそらく「正当化理由」があるはずですから、そこまで遡って「果たして倫理観がなかったのかどうか?彼らには彼らなりの倫理観があったのではないか?」というところまで思考を停止せずに、異論も覚悟で検証していく必要があると思います。
法律の世界からみれば「ガバナンス改革」というと「社外役員の義務化」といった議論に結び付きやすかもしれませんが、上記のように考えますと、実は経営学や組織論、心理学の世界からみたガバナンス改革ということもありうるわけでして、法律家以外の方々のガバナンスに関する意見なども、これからたくさん出てきてほしい、と願うところです。
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