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2012年10月15日 (月)

金融庁・不正対応監査基準を法的に考える(その2)

さて素案が出ております金融庁・不正対応監査基準を法的に考えるシリーズは、今回が実質的には3回目のエントリーでございます。今回は、もっとも私的に関心の高い不正リスクの評価と不正の端緒との関連性についてであります。これを法的に検討するにあたっては、ナナボシ監査見逃し事件の大阪地裁判決(平成20年4月18日)と、大原町農協監査見逃し責任の最高裁判決(平成21年11月27日)が参考になろうかと思われます。なお会計監査人の方にとりましては、法的責任とは別に行政処分(懲戒処分や課徴金処分)についても関心が高いものと思いますが、ここではあくまでも民事上の法的責任を念頭に置いていることをご理解ください(監査基準はあくまでも監査人の行為準則であり、ダイレクトに民事上の責任の根拠となるものではございません)。

不正の端緒(不正による重要な虚偽表示の端緒)というのは、この監査基準素案によりますと、これを示す状況を監査人が認識した場合に調査対象となります。通常の監査計画に基づいて監査を行っていたところ、不正の端緒を示す状況を知った場合には、そこから一気に緊張関係が高まり、法的には結果回避義務が具体的に特定されるようになるものと思います(ここまでは、比較的わかりやすい議論かと思います)。

しかし、ボーっとしていた監査人、手抜きをしていた監査人は、不正の端緒に気付かないので、結果回避義務が発生せず、むしろ有能な監査人ほど不正の端緒に気付いてしまうために、法的に求められる経過回避義務のレベルが高くなる(つまり過失が認められやすくなる)というのも、なんだかおかしくないでしょうか?いや、たしかにおかしいですよね。こういったことについて、監査役(正確には監事)の法的責任を認めた大原町農協事件判決の考え方が参考になろうかと。

つまり不正の端緒という概念は、監査基準上のものではありますが、法的にみると不正の端緒が一般的な水準の注意義務を有する監査人にとって明白な場合と、そうでない場合とに分けて考えることができるものと思います。たとえば、監査人にとって不正リスクが高いものと評価せずに監査計画を立てて、その計画に従って監査手続きを履行しているケースでは、この不正の端緒の存在が「明白な場合」にのみ監査人の注意義務違反が問われることになります。また、不正リスクが高いものと評価していた場合もしくは高いものと評価すべきであった場合には、そもそも監査手続きが「不正による虚偽表示は見逃さない」といった注意モードに入っているわけですから、たとえ不正の端緒が監査人にとって「明白な」ものとは言えない場合でも、直ちに注意義務違反の認定が可能になってくる、というものです(現に、ナナボシ事件大阪地裁判決は、このたびの監査基準草案に出てくる「不正リスク評価の例」のうち、経営者に対する極度の売上向上のプレッシャーや絶対的支配者たる地位など、いくつかの事実を認定して、そこから監査人の不正発見義務を導きだしています)。

不正対応監査基準が出されたからといって、一気に不正監査の手順を厳しくしなければならない、ということになりますと、監査法人としては報酬額を上げざるをえないことになり、経済団体からも反対が表明されることになろうかと思われます。また、投資家保護のための監査という制度監査の趣旨からみても、過剰な監査になろうかと思われます。ただ、不正を許さないための監査基準ということなので、監査人としては、どこかでシフトチェンジしなければなりません。したがいまして、監査計画策定の段階であれば不正リスク評価(ただし、これはいまでもリスク・アプローチ監査のなかでは当然のことかと思いますが)、そして期中であれば不正の端緒(もしくはこれを示す状況)によって、監査人と会社側との緊張関係の高まり(もしくは更なる監査への協力関係)が必要になってくるわけであります。

法的に見ましても、監査人を訴える側において不正の端緒(もしくは不正の端緒が明らかであること)を主張・立証し、監査人側においてこれに反論する、という流れになろうかと思います(膨大な監査調書を原告側で精査する必要はないかと)。そして不正の端緒が存在するケースにおいては、これを見逃したことについて監査人側に落ち度がなかったことについては監査人側で主張・立証する、ということになるのでしょうか。これが訴訟における双方の負担という意味においてもバランスがとれていると思われますし、当事者対等主義による民事訴訟法での真実解明にも役立つものになります。

このように考えますと、今後はこういった不正対応監査基準を拠り所として、公認会計士・監査法人の法的責任が問われる事例が増えてくることは間違いないところかと思います(とくに金商法24条の4を根拠としたものが増えるのでは・・・)。ただ、訴訟を起こされる件数が増えることと、監査人が訴訟で敗訴することとは別でありまして、むしろ争点の形成が上で述べたような形になりますと、被告である監査人側も反論がしやすくなり、結局のところは監査人が勝訴する裁判が増えるように思います。その増えた裁判例から、おそらく一般の投資家にも「監査人の職務とはこういったものなのか」と理解されるようになり、次第に「期待ギャップ」は埋まることになるものと期待しております。そして最終的には裁判結果について監査人側にも投資家側にも予測可能性が生じますので次第に裁判は減ってくるのではないでしょうか。つまり、投資家も期待ギャップの意味を知る努力をしなければならないのですが、いっぽうで監査人側も、数々の裁判を通じて、期待ギャップを埋めていく努力が必要だと思います。

いろいろと私的な見解を述べてみましたが、いずれにしても会計基準や監査基準の改訂は不正のあぶり出しにはたいへん効果がございます。オリンパス事件も金融商品会計基準の改訂が「あぶり出し」のきっかけになりましたし、またアイ・エックス・アイ事件につきましても、メディア・リンクス事件の教訓を活かしたソフトウェア取引の売上計上基準の改訂(総額主義→純額主義)が発覚の要因であります。このたびの議論が、不正会計の早期発見に資するものとなるよう、関係者の皆様方のご尽力に期待する次第であります。

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コメント

 裁判例が多く出ることで、期待ギャップが埋まっていくというのは、訴訟において代理人でしかなく、被告人にはならない弁護士さんの意見だというように思います(たいへん失礼な言い方かもしれませんが)。公認会計士が被告人にされれば、新聞等で報道され、その時点では、「訴えられるくらいだから、かなり怪しい監査をしていたに違いない」という印象が全国にばらまかれ、訴訟をやった結果として、無罪となっても誰も関心を示してはくれません。そして、訴訟をしている期間は、収入の途を絶たれ、勝訴後も「怪しい監査をしておいて、とりあえず裁判では勝訴を手にしたずるい人」という見方をされるのが精いっぱいです。
 伊藤 醇「命燃やして―山一監査責任を巡る10年の軌跡」は読まれましたでしょうか。山一證券の損失飛ばし事件で監査人の責任を問われた監査人が勝訴を得てから書いた本です。その中でも、勝訴になっても新聞等はまったく報道してくれない、名誉は回復されないと書かれています。山一事件ですらそんな結果になるのです。
 つまりToshi先生の解決案は、無実の公認会計士を何人もグレーな人に陥れたうえで明瞭な制度ができればいいんじゃない?とおっしゃっているのと同じではないでしょうか。訴訟の被告人になって人生を狂わされる人の存在を前提に制度を作っていくという発想は危険だと思います。
 公認会計士の発想としては、提訴された時点、すなわち被告人にされたこと自体が負けなんです。だから、不正には厳しく対処せよとなれば、不必要に厳しい監査をせざるを得なくなります。金融機関からの残高確認書に記載漏れがあっても、あちらの事務手続きミスで発送が遅れても、監査証明は出せない、開示遅れしてくださいと言わざるを得なくなると思います。こういう事例を乱発して「不正を一所懸命見つけようというのは良いけれど、オオカミが来た状態は困るよなぁ。そのたびに株価が下がるんだもん」と投資家に感じてもらう結果になるのではないかと思います。
 そうならないような制度の作り方はないのか?というのが私の問題意識です。

投稿: ひろ | 2012年10月15日 (月) 13時25分

ひろさん、いつも有益なご異論、どうもありがとうございます。たいへん勉強になります。

最終的な目的という点では私もひろさんとあまり変わらないものと考えています。「無実」というのは言葉が間違っており、民事上の責任(注意義務違反)が争われる、ということですね。たしかに今のままではそのような結果になろうかと思われます。

当ブログをお読みいただければおわかりのとおり、私も伊藤さんのご著書にはたいへん感銘を覚え、あのような裁判に巻き込まれないためにはどうすべきか?という問題意識を持っています。
ここに書いたとおり、裁判の定型化はひとつの提案内容です。裁判に巻き込まれることはありうるが、迅速に紛争が解決される仕組みが「不正の端緒」論です。不正の端緒というのは、訴訟の定型化を目的としたものです。まずは訴訟が遅延しないことが最も重要かと思います。

なお、会計士は訴訟に巻き込まれた時点で負け、というのは実態としてはそうですが、では会計士が巻き込まれないためにはどうしたらよいのでしょうか?
ひとつの答えは、新日本監査法人の第三者調査委員会報告書でしょう。グレーだと思えばみずから積極的に開示をする。守秘義務や倫理問題におそれずに、自らの行動が正しいことを広く社会に開示することです。このリスクをとらずして、これから裁判に巻き込まれない方策はありません。弁護士の弁護過誤事件が増えているのと同じように、会計士の過誤事件も確実に増えます。
このあたりは、私の新しい本(12月には出版予定)で詳しく述べております。また、ひろさんのコメントに感化されて、新しいエントリーを書きたくなってきました。

投稿: toshi | 2012年10月17日 (水) 01時26分

不正監査とは違う話題で申し訳ありません。
オリンパスが買収し、後に減損処理をした企業の株主価値算定を行った会計士の方なんですが、ほとんど話題になっておりません。
法的にどうかは分かりませんが、倫理的におかしいと思います。
また、会計士協会からも何ら発言がないようですが、これって会計士の評価を著しくおとしめていませんか?
監査時に不正に気がつかないことよりも問題だと思うのですが。

投稿: 特命希望 | 2012年10月17日 (水) 08時27分

たしかオリンパス事件の監査役等責任調査委員会の報告書で、こういった形で専門家意見が利用されることが最大の問題だと書かれていましたね。

なかなか難しいところでして、「利用されただけだ」と言われた場合に、どこまで責任を問えるか・・・というところではないでしょうか。会社側から提出された情報をもとに・・という条件付きの意見だったということなんでしょうが、私もやはり問題であることは事実だと思っています。

投稿: toshi | 2012年10月18日 (木) 01時16分

公認会計士協会の倫理規則に抵触する可能性はありますね。
3条で、「重要な虚偽情報が含まれていることを知った場合には、当該情報への関与を速やかに中止しなければならない」とされています。

会計や監査の分野では、企業会計審議会・ASBJ・公認会計士協会から様々な基準・適用指針・実務指針等が出されていますが、策定主体が公であるか私であるかによって法的な規範性に違いがあると考えるべきでしょうか?

投稿: 迷える会計士 | 2012年10月18日 (木) 22時14分

 倫理規則に抵触する可能性はあっても、あくまで可能性なのでは? O社が買収しようとしている会社であり、天下のO社から出された将来の見積もり情報に対して、「あまりにも急成長過ぎて虚偽情報だと思われるから株価鑑定はできません」と言えますか?将来の見積もり情報について、虚偽か虚偽でないかを判断できる手法があるなら、教えてほしいです。
 このO社に提出された株価鑑定書は、ネットに流出していましたので、私も読みましたが、買い手から出された情報に基づいて鑑定したものであり、その情報が妥当でなかった場合の責任は負えない、といった趣旨の断り書きが入っていました。O社が依頼したO社のための株価鑑定では監査のような公正性は求められていないと思います。
 不正発見のような場でミスが続くと、公認会計士が悪い、こいつを叩いておけばガス抜きになるみたいな動きになるのは困ると思います。霞を食って生きていけるくらい報酬がもらえているなら世間から厳しく見られても仕方ないですが、試験に合格した若者を100%雇用することもできないほど病弊している業界ですので。世間は、公認会計士にどの程度の報酬水準を覚悟しながらどの程度の期待をしているのでしょうか。ないものねだりでないことを祈りたいです。

投稿: ひろ | 2012年10月22日 (月) 12時52分

公認会計士という資格には、社会的な重みがあります。
オリンパスからの鑑定依頼は、断るべきだったのでは?
評価書にある断り書きに反してオリンパスが企業買収の判断材料にしたのは明らかであり、これに対する会計士からの反論、あるいは会計士協会からのコメントがあって当然だと思いますが。
社会的責任をもっと考えて欲しいと思います。

投稿: 特命希望 | 2012年10月23日 (火) 08時29分

「期待ギャップのほとんどの部分について、投資家の無知への教育啓蒙ではなく、会計専門職自身による期待の受容と改善によってのみ狭められる」(カナダ勅許会計士協会)というように、国際的にみれば会計士側の問題とされています。陪審員をとっている場合には、社会の期待が司法判断に影響を与えることとなり、それに対して会計士側が反論の道具として「期待ギャップ」を持ち出したものの、ほとんど敗訴しています。
我が国のように職業裁判官であれば、社会の期待がどうであれ、あくまでも専門家としての正当な注意義務を果たしたか否かにより判断されることとなるでしょうから、裁判の結果がどの程度「期待ギャップ」を埋めることに役立つでしょうか。

海外では法定監査制度が導入される前から、社会からの要請により監査が実施されていたため、社会の期待に応えなければ会計士が存立しないという意識が強くありますが、一方我が国の会計士制度は、国家の手によって導入され発展してきたため、会計士がプロフェッションとしての自覚に乏しく、責任感・倫理観が希薄さ、ときには欠如となって現れています。本来のプロフェッションの原理は利他主義・公益主義ですが、我が国においてはプロフェッションを受け入れる基盤が弱いため、営利主義・商業主義に走る傾向があります。このような歴史的経緯により、我が国の会計士と海外の会計士の間では、社会の期待に応える意識に違いがあると考えられます。

投稿: 迷える会計士 | 2012年10月31日 (水) 20時39分

迷える会計士様、そんな背景により今の「期待ギャップ」があるのですね。ということは、日本における証券市場は未だ発展途上であり、素人の投資家にはリスクが大きいということでしょうか?
たしかグリーンシートという制度があり、全く成果があがっていないのも、日本の市場の未熟さが影響しているのでしょうか?

投稿: 特命希望 | 2012年11月 1日 (木) 09時05分

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