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2013年5月15日 (水)

開示規制はどこまで行為規制に代替しるのだろうか?

昨日(5月13日)発売の週刊東洋経済「会社の数字」特集にて「不正はどこでも花開く」と題する小稿を掲載いただいておりますので(同誌65ページ)、ご興味のある方はご一読いただければ、と。なお60ページからの宇澤亜弓氏(公認会計士)による「会計社は社会的使命に立ち帰れ。守秘義務を言い訳にするな」はとても読み応えのある力作であり、これまで他ではあまり聞かれなかった意見なども満載で参考になります。

さて、以前ご紹介した行動経済学の本「ずる-うそとごまかしの行動経済学」(ダン・アリエリー著)がたいへんおもしろかったので、あれ以来統計学に関する本を数冊まとめて読むようになりました。あの本でも少しだけ話題になっていたのが、開示規制の効用であります。法が人間に作為、不作為を命じるという行為規制の代わりに、ときどき「なぜ行動するのか、しないのか、その合理的な理由を説明しなさい」とか「違法性が疑われる行動について、適法だというのであれば詳細を開示しなさい」といった開示規制が設けられることがあります。

自由を最大限保障したうえで行政目的を達成せんとする手法は、規制緩和により事前規制社会から事後規制社会へと移行しつつある日本の社会にも開示規制があてはまるようにも思えます。たとえば会社法の見直し論議に出てくる社外取締役設置問題についても、会社法は独立社外取締役の導入が望ましいというスタンスをとった上で、もし社外取締役を導入しないのであれば、当社では導入することが相当ではないとする理由を開示しなさい、ということになります(秋の国会で法案が提出されるようですね)。

しかし、いろいろと統計学の本などを読んでおりますと、開示される情報をどこまで市民や投資家が関心をもっているかといいますと、かなり怪しい。規制する側は、重要な情報を開示させれば開示するほうがウソはつけないから、当局が望ましいと思う行動が伴うであろうと期待をします。しかし、上記「ずるーうそとごまかしの・・・」の本では、開示した人たちは「開示をした」という良いことの反動として、これに見合う虚偽や隠ぺいをおこなって「心のつじつま合わせ」をしてしまう、といったことを実証しています。企業と取締役との利益相反行為の詳細を開示するように要求すると、その詳細を開示したことで、かえって不誠実な取引が増える、といった具合です。

また、「今年度はこのような事業を行います」と情報を開示したところで、その開示された内容が本当に企業によって行われたのかどうか、その業務に関する評価はあまり株価には影響せず、むしろ「今年度はこのような事業を行います」と開示したときのほうが株価に影響をする、といった実証研究が出ています。つまり投資家の自己責任とは言われるものの、実は投資家はあまり企業の開示情報には関心がない、といったことのようです。たしかに詳細な有価証券報告書が出されても、これを投資家がどこまで判断材料として見ているかは疑問かもしれません。

開示規制というものも、市場の健全性確保のために活用されるということになりますと、「誰がみても悪党」と思われる0.5%の会社にとっては有効でも、残る(ほぼ誠実に企業経営をしている)99.5%の会社にとっては、むしろズルをする誘因になる(誠実さを緩めてします)とか、PDCAを尽くさないといったことになってしまいますと、規制の効率性という視点からはかなり問題ではないかと。かといってガチガチの行為規律をもって対応する、というのも不経済であります。結局のところ、開示規制についても工夫が必要なのでしょうね。今回、会社法の見直しの中で、内部統制の基本方針の整備とともに「運用状況の概要」も事業報告において開示されることになりますが、きちんと検証したこと自体を開示する、といった手法を採用することで、PDCAも開示の対象とされるようなことも一つの工夫かと思います。

ちなみに拙著「法の世界からみた会計監査」の第10章「訂正と非開示のコンプライアンス」では、上述と同じような問題意識のもと、開示コンプライアンスの一環として、企業の誠実性が透けて見える開示規制の工夫について述べております。むしろ開示規制はソフトローの時代には、企業の誠実性を表現する手段にもなりうると考えております。開示規制を「やっつけ仕事」とみるか「企業の誠実性を表現する戦略」とみるか、企業の姿勢によって変わりうるものだと理解しています。

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コメント

「開示したことの反動として・・・」は、同感です。
会計士から指摘されたことは全部開示してしまって、だからOKでしょと開き直っているケースもあるようです。
会計士としても自分の番でダメ出しはしたく無いので、財務諸表は無限定適正意見。内部統制も不備ありと書いて有れば、こちらも適正、となります。
結果、世間の人から見れば問題なしに見える訳です。
取締役会も監査役会も皆お友だち、または利益共同体であれば、背任や善管注意義務を指摘する人もいませんし。
そうやって、崩れていく会社、正確にはその経営者の方々は、どんどんグレーゾーンをひた走ることになるのでしょうね。
過去の、様々な事件や、経営者と監査役の泥仕合が表面化したとき、事の発端は5年位遡るというのは、そんな背景が共通しいるのかもしれません。

投稿: ももんがー | 2013年5月18日 (土) 12時12分

ももんがーさん、もうひとつのコメントと併せてどうもありがとうございます。私の問題意識に近いところですね。参考にさせていただきます。なお、ももんがーさんがご指摘の点を考えるにあたりとても参考になる新刊書「組織が崩壊するには前兆がある」を本日読了いたしました。またエントリーにてご紹介したいと思います。引き続きヨロシクお願いいたします。

投稿: toshi | 2013年5月21日 (火) 01時26分

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