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2014年12月 8日 (月)

「攻め」のガバナンスと「守り」のガバナンスの議論はもう古い?

昨日(12月7日)発売の日経ヴェリタスでは「眠れるマネー動かすガバナンス改革」と題する特集記事が組まれていました。金融庁・東証によるガバナンス有識者会議が(本来は予備日として確保されていた)12月12日の会議をもって終了するものと思われますので、年内にはコーポレートガバナンス・コード案も公表されるのではないでしょうか(最終的には東証のコーポレートガバナンス原則との調整作業が必要になりますね)。

これでスチュワードシップ・コード(本年2月策定)とコーポレートガバナンス・コードが揃うわけでして、いよいよ来年は企業統治改革も本格化することになりますが、やはり上記ヴェリタスの特集記事では、シンクタンクの調査結果などをもとに「社外取締役の人数とROEは相関が薄い」「政府や市場はコンプライアンスの充実といった守りのガバナンスではなく、手元資金の効率的な利用といった攻めのガバナンスを求めている」といった書きぶりが目立ちます。

ただ、こういった議論は「株主との対話」といったことがガバナンスの課題として議論される以前の状況を前提としたものであり、私は少し違和感を持っています。市場で力を持っている「機関投資家」をひと括りに捉える風潮がありますが、機関投資家の方々とお話をしているとそれぞれトーンが少し違いますよね。なぜ企業統治改革に期待を寄せているかといえば、「企業統治の優れている企業に投資したい」とする人たちもいれば「企業統治に問題を抱えている企業に投資したい(対話ができる時代になったのだから、潜在的価値がありながらそれが株価に反映していない企業のビジネス改革に関与して儲けたい)」とする人たちもおられて、それぞれ「社外取締役に期待するもの」が異なります。

企業統治の仕組みを論じることがコーポレートガバナンスの話題の中心だったころであれば「社外取締役を導入すれば企業価値にどう影響するか」といった検証にも興味がありましたが、機関投資家の受託者責任、つまり安倍政権の経済戦略の下で「株主との目的ある対話」がガバナンスの議論と不可分の関係とされる現在、ガバナンスは「いかに整備するか」だけでなく「いかに運用するか」という点も関心事とされるに至りました。

したがって「良いガバナンスとは?」という前提自体から再定義する必要があります。たとえば社外取締役がどのように機能することが「よいガバナンス」になるのか、報酬や株式持ち合い解消等、どのようなポリシーを開示していれば「よいガバナンス」になるのか、そのあたりの前提を再定義しなければ(パフォーマンスとの関連において)検証してもあまり意味がないと思いますし、まさにヴェリタスの記事にもあるように「外部の声による貢献はこれから」ではないかと。

また拙著「ビジネス法務の部屋からみた会社法改正のグレーゾーン」の第1章でも書かせていただきましたが、攻めのガバナンスと守りのガバナンスは「仕組み」からみればそのような区分も可能かもしれませんが「機能」からみれば表裏一体です。そもそも社外取締役を選任したからといってコンプライアンスが充実する・・・ということ自体が幻想であることはエンロン、ワールドコム、オリンパス事件をみれば明らかです。オリンパス事件ではM&Aの財務戦略、エンロン、ワールドコム事件ではEBITDAを構成する減価償却費の解釈が問題だったわけで、いずれにせよ経営戦略を検討するなかで誰もが違和感を抱くところに声をあげなければ不正は発見できないところです。「何かおかしい」と気づくためには「攻め」も「守り」も必要なわけでして、すなわち社外取締役になられる方には、双方の能力が求められると考えるべきだと思います。

機関投資家と社外役員が直接対話をする・・・という機会がそれほど増えるとは思いませんが、ただ「社外取締役はどのような視点から重要案件に対応しているのか」といったことは説明を求められるかもしれません。実際に社外取締役を経験してみると、社内にはいたるところに「構造的な利益相反問題」が横たわっていますから、これに気づき、社外の目でどのように解釈をしているのか、そのあたりへの配慮というものは常に持ち合わせておく必要があります。私自身の意見としては、社外役員の出自がどのようなものであれ、うまく機能すれば攻めにも守りにも有用なものだと考えています。

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コメント

先生がここで取り上げておられる「攻めのガバナンス」とは意味合いが異なるかもしれませんが、コポガバコードの議論その他において、
「経営陣は保身のため消極的になりがちなので、社外取締役導入により積極的な経営を促進する」
ということが言われております。

ここで申し上げたいのは、委員会設置会社において、社外取締役がそのような働きをすることの問題点です。
それは、委員会設置会社における取締役の責任があいまいであることに起因します。
モニタリングモデルは、取締役会が経営陣を評価・牽制することしか考えていません。

経営の失敗の原因が社外取締役のプッシュにある場合でも、社外取締役の責任を問うことは難しいでしょう。
監査役設置会社や非取締役会設置会社において株主責任を問うには、法人格否認の法理(piercing the corporate veil)を援用するなど特別な構成が必要ですが、それと似たハードルがあります。

http://kaishahou.blog.shinobi.jp/Entry/29/
の模式図にみるとおり、委員会設置会社は重層構造です。それゆえに、責任の分化が生じ、経営者のみが責任を負わせられやすく、取締役無責任体制ができるのです。
それが「攻め」の力の根源になるというなら、攻めの「ガバナンス」などと言ってはならないと思います。

モニタリングモデル信奉の先入観を一度取り去って、「監督」の再定義と経営構造の模式図化をして欲しいものです。もはや吠えてもムダの感はありますが。

投稿: S.N. | 2014年12月 9日 (火) 23時41分

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