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2016年5月30日 (月)

監査役もフィデューシャリー・デューティーの時代

月刊監査役最新号(2016年6月号)の巻頭(羅針盤)に、樋口範雄氏(東大教授)の小稿「契約関係と信認関係-専門家の信頼強化のために」が掲載されています。職業専門家の利益相反事例に関する米国の裁判例を通じて、「法と契約と倫理の関係」が解説されています。樋口先生といえばもちろん信託法の権威でいらっしゃいますが、20世紀末に「フィデュシャリー(信認)の時代」という著書でフィデューシャリー・デューティー(現在は「フィデュー」とか「デューティー」と伸ばすようです)を日本に紹介された第一人者の方です。小稿の中で掲げられている具体例も、なかなか興味深いものです。企業の利益を追求すればするほど、その信用が失われ、持続的な成長を困難にしてしまう例は日本でも多く存在します。

フィデューシャリー・デューティーの徹底は、金融資本市場の環境整備に必須ということで、日本再興戦略2016(素案)でも金融行政の重点項目とされており、昨年あたりから金融機関では(行政当局との対話において)話題になっていますね。このたび月刊監査役でも樋口先生が登場されたということは、一般企業の監査役の皆様にも理解が必要な概念になってきた、ということではないでしょうか。そういえば5月25日の日経新聞朝刊「大機小機」のタイトルも「フィデューシャリーの時代」ということで、「21世紀の日本は、金融界を超えて社会全体がフィデューシャリーの時代を迎えているとの認識が必要ではないか」と問題提起がされていましたが、私もまさに同感です。近時話題になっている「フィデューシャリー・デューティー」は日本の金融機関の信頼性向上を目的としたものですが、コーポレートガバナンス・コードが成長戦略として実施されている昨今の上場会社にも、日本の証券市場を通じてフィデュシャリー・デューティーの発想が妥当するものと考えます。

たしか金融法務、企業法務に精通した法曹の方々を中心に「フィデューシャリー・デューティー」について議論していたころは、取締役の善管注意義務や忠実義務との関係で、法的義務の中身を精緻化するために活用されたり、善管注意義務の範囲に含まれるかどうか微妙な問題について、信義則の内容を明確化するために(つまり法的責任を論ずるために)活用されていたものと思います(先日のクックパッド社の経営権争いの中で、取締役監査委員だった著名法律家の監査報告個別意見でも「フィデューシャリー・デューティー」なる言葉が登場していましたね)。そもそも契約内容が締結当時は明確にならないために、裁判官が、後日契約の中身を補完する目的で「信認義務」を活用することもあります。

しかし、金融監督指針等で用いられ、現在話題になっている「フィデューシャリー・デューティー」は、ややこれとは異なるようです。契約関係の有無は別として、高度な専門性を有する受託者と受益者のように信認関係に立つ場合の受託者の役割・責任ということで、法的責任を超えた誠実義務のようなものとして捉えられています。受益者の利益を最優先するために受託者は何をすべきか、受託者自身で考えなければならない裁量の幅が広いのでいわば「プリンシプルベース」の発想です。そもそもどのような行為が「受益者にとって最良の行動か」という問題提起が不思議なものです。神様でなければ「受益者にとっての最良行動」など、現実にはわからないですし(後だしジャンケンのリスクが高い世界)、生身の人間の行動は不合理なものばかりですから(受益者の心理は多くのバイアスに満ちています)、受託者の誠実義務といっても裁量の幅は広いのが当然だと思います(本気で最良執行義務とは?といったことを語り出したら、おそらく人間関係は破滅してしまうと思います)。したがって、私は緩く「企業倫理」という概念で捉えるべきものではないかと考えています。

日本は判例法ではなく実定法の国ですから、英米法で形成されてきたフィデューシャリー・デューティーの考え方が、そのまま法的責任の有無に直結するわけではないようです。しかし、誠実義務ということが議論されるのであれば、実践的に企業倫理を検討するためのテーマにはなるように思えます。刑事罰や行政制裁の対象となる企業行動の「グレーゾーン問題」やガバナンス・コードに代表されるソフトローの解釈等、誠実義務の中身および義務違反に関するエンフォースメントの在り方等、監査役の皆様方にとっても具体的な事例を通じて検討することが有益ではないでしょうか。そしてその検討の最終成果としては、各企業における監査役の信頼向上ひいては、各企業の信用の向上にあると思います。

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コメント

私はこの「フィデューシャリー・デューティー」なる言葉が大嫌いです。
理由としては、これがいわば「マジック・ワード」として使われることで、議論が深くされない気がするためです。

また、浅学非才の身としては、「フィデューシャリー・デューティー」なるものと委任契約等における「(委任)事務処理義務」との違いが理解できません。
ことさらカタカナ用語を用いて煙に巻いている印象をぬぐえずにいます。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2016年5月30日 (月) 14時40分

場末のコンプライアンスさんがフィデューシャリー・デューティーという言葉が嫌いないのはおそらく、それがなんだか言葉のインフレーションを起こし、法律とかの文脈で使われるので違和感を感じているのではないでしょうか。投資の世界ではかなり一般的なのですが。

投稿: 工場労働者 | 2016年5月31日 (火) 20時06分

工場労働者さん、言葉自体が(特に投資の世界で)一般的なのは承知していますが、定義があやふやなまま、なんとなく使われているように思います。
明確な定義を見たことが無いものですから。

投稿: 場末のコンプライアンス | 2016年6月 2日 (木) 14時00分

フィデューシャリー・デューティーについて、コメントします。
私の理解では、フィデューシャリー・デューティーは、日本の会社法での善管注意義務と忠実義務を合わせたものに近いものではないでしょうか。
商法改正の歴史を見ると、昭和25年商法改正で、忠実義務を取締役に課し、監査役は会計監査のみに限定され、その後の昭和49年商法改正で、監査役に業務監査を課しています。その間、八幡製鉄政治献金事件での取締役の忠実義務は、善管注意義務の延長であるとの判例が出て、取締役の忠実義務は、英米法の忠実義務ないしフィデューシャリー・デューティー(信認義務)とは、内容を異にするものに変化してしまったのだと思います。日本の会社法は取締役のみに忠実義務を課し、監査役には忠実義務を課していません。
昨今、コーポレートガバナンスコードで、受託責任の名のもとに、あたかも監査役が忠実義務を負っているがのごとくいわれていることも、ソフトローとは言いながら、腹に落ちないでいますが、日本の監査役制度が、忠実義務を負っていない点からも、英米諸国に信頼を得られない理由になっているのではないかと危惧しています。
私は、監査役であったものですが、専門性を有する受託者と受益者のように信認関係に立つ場合の受託者としての監査役の専門性をどの様に磨いてゆくのか(どのような人が監査役に適任なのか)、あるいは、その専門性の有無をだれが判断するのか(監査役候補の選任は、社長なのか、監査役なのか)が、忠実義務なし信認義務を負う監査役制度を作ってゆくときの課題ではないかと思っています。

投稿: 法律しろうと | 2016年9月 8日 (木) 19時05分

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