法学の誕生-「人間学」へのアプローチ
5月に購入しておりましたが、ようやく内田貴先生のご著書「法学の誕生ー近代日本にとって『法』とは何であったか」を拝読いたしました。
明治初期、列強との不平等条約を改正するための条件として、短期間で西洋法制を日本に輸入しなければならない時期。その時期に立法、法解釈の場面で活躍した兄弟穂積陳重(のぶしげ)、八束(やつか)兄弟に焦点をあてて、「法の誕生」ではなく「法学の誕生」について語られた力作です。「世間からは、この兄弟にはこのような評価が下されているが、よくよく研究してみると、実は誤解されている点が多いのではないか」といった論調(しかも検証資料が豊富)が、読み手の興味をそそります。
陳重の思いが、119年の時を経て「日本国民にわかりやすい民法」への改正作業として開花することになりましたが、実際に(改正法が)そのようになっているかどうかは疑問もあります。内田先生は、そのような債権法改正作業の中心にいらっしゃるわけで、改正作業の初期に抱いた高い目標が、いま改正法施行を目前に「目標を果たせた」と評価されているのかどうか。法が「社会力」の発現となりうるためには、一般社会において「法律は国民にわかりやすい」ものでなければならず、今回の債権法改正条項は、国民意思の発現たる社会規範としてふさわしいものなのかどうか、という点はいろいろと議論されてもよいのではないでしょうか(ちなみに、現民法の信義則条項、権利濫用条項は、戦後の民法改正によって導入されています)。
また、日本にも憲法改正の流れが生じている中で、「社会力」としての法学がその使命を果たしているのか、そして改正後の憲法解釈やさらなる改正に、そのような法学の力が果たせるのかどうか、それは「人間学」としての法学を担う人たちにかかってくるものと思います。2000年に始まった司法改革ですが、そのなかで法科大学院の失敗がよく議論されます。その失敗を議論する要点は、予備試験が「抜け道になっている」といったところではなく、自然科学を含めた、法学の周辺領域にまで教養を深め、人間力を高めた者こそ「法学」を担うことが期待されたにもかかわらず、その役割を法科大学院が果たせていない点にあるのではないかと。本書を読み、そのあたりを痛感いたしました。
本書から多くの示唆を得ましたが、その個別内容(たとえば自然法思想や法実証主義、そもそもなぜ日本では法学が成立しなかったのか、など)については、また個別のブログエントリーの中で言及してまいりたいと思います。いずれにしても、西洋法学の土壌のない日本において、法典編纂の直後にこれを(日本の伝統と慣習を尊重しつつ)日本に根付かせるために尽力した二人の日本人の功労には敬意を表したいと思います。
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