会社と意見相違した会計監査人の判断理由開示について(3・完)
金融庁に新たに設置された「会計監査についての情報提供の充実に関する懇談会」の開催資料を読み、思わず会計監査制度の将来について(素人ながら)自説を述べてまいりましたが、今回のエントリーが最終回となります(ちなみにご興味のある方は、エントリーその1、エントリーその2はこちらでございますのでご参考まで)。経営財務の最新号には上記懇談会の第1回会議におけるメンバーの主な発言要旨が掲載されておりますね(メンバーのお名前も含め)。
前回のエントリーの最後におきまして、
「会計監査制度のあり方」の根本に関わる問題と思いますが、ではなぜ今「会計監査制度の社会資本としての価値」を語る実益があるのか
と書きました。今こそ「会計監査の社会資本性」について語る必要があると考えておりますが、その理由は私の5年前の著書「法の世界からみた会計監査」(同文館出版 2013年)でも少しばかり述べております。私は行動経済学、認知心理学の考え方が、そもそも会計監査の理解にとっては必要ではないかと考えています。
先日、こちらのエントリーの中で、ゴリラのバスケット実験をご紹介し、「人は(視野に入ったものであったとしても)自分が見たいものしか見ない(見えない)のではないだろうか」との感想を述べました(おかげさまで、このエントリーはたいへん多くの皆様にお読みいただきました)。このゴリラのバスケット実験は「注意の錯覚」を扱ったものですが、この実験を行った認知心理学者クリストファー&ダニエルらによる「錯覚の科学」(文春文庫)の中で、「自信の錯覚」に関する研究結果も紹介されています。人は自信なさげの説明よりも、自信たっぷりの説明ぶりの説明をつい信用してしまう、というもの。著者らは、この自信の錯覚を、医師と患者の関係から解説しています。
多くの臨床実験の結果から「患者は医師の(いいかげんな)説明でも、医師が自信たっぷりに説明すれば信用してしまう。しかし、医師が目の前で参考書を取り出してきて、いろいろと調べた末に処方の結論を出した場合には、たとえ正しい処置がみつかったとしても患者は不安を覚えてしまうそうです。「自信はアテにならない」ことは多くの実証研究でも証明されているのですが、どうしても「自信の錯覚」に患者は陥ってしまう。本書では、難病治療の世界で有名な米国医師の話が引用されています。同医師によると「医師にはある程度の自身は必要。だが最良の医師とは、患者の目のまえで『わかりません』と正直に言える人である」とのこと。
会計監査もこれと同様ではないでしょうか。「監査は神聖不可侵」と自信たっぷりに意見が述べられれば、投資家も会計監査人の意見を疑わないでしょうし、英国のように「俺が会計基準だ」と自信たっぷりに説明されれば、投資家は安心すると思います。ただ、このたびの東芝さんの会計不正事件における会社と二つの大きな監査法人の間で発生した監査意見の相違を目の前にしますと、監査を行う人によって「監査意見は絶対」というものではないのであり、(ひょっとすると)会計監査人の巧拙によって投資家が損失を被る可能性はあるということが示されたと思います。これまでのところ、〇〇監査法人の意見が正しく、〇〇監査法人の意見は稚拙で誤りだった、といった判定は市場関係者の間でなされていません。したがって、「会計監査の世界においても、やはりセカンドオピニオンは存在する」との結論をとらざるをえない。
そうであれば、少なくとも会計監査の利用者にとって、どっちの会計監査人の理由と結論を信用すべきか、その優劣を素人なりに判断する道は保証されるべきですし、そのための会計監査人の説明義務についても議論されてしかるべきです。会計の素人に「真の会計監査の品質などわかるはずがない」のであれば、せめて(自己責任を問いうるだけの)「品質に関する安心」だけでも提供できる制度があれば社会資本となりえると考えます。これが今求められる会計監査の「社会資本」としての価値だと考えます。よりよい会計監査の判断には被監査企業や投資家の協働が必要されるゆえんはそこにあると考えます。職業倫理をわきまえた会計プロフェッションである以上、会計監査人は自信たっぷりに監査意見を述べるべきと思います。しかし、「意見不表明」「不適正意見」についても堂々と述べるべきですし、最終的には投資家に会計監査の質を判定してもらうだけの気概を持つべきではないでしょうか。
| 固定リンク
コメント
資本主義社会においては会計監査は社会資本であるとの考え方は全くその通りだと考えます。善意であれ悪意であれ虚偽記載をなくして適切に企業の財務状況を世の中に伝えていくことの社会的な意義は大きいと思います。
ところで、(勉強不足を棚に上げて申し上げますが…)財務会計が私のような素人にはわかりにくくなってしまったのは、ここ十数年の間に取得原価会計から時価会計に大きく制度が変わってきたことがあると思います。
時価会計には各種の「見積り」がつきものですから、そこに経営者の恣意性が入ってくる余地があると常々感じています。
事業のリスク等をどう見積るか次第で、結果としての財務諸表は変わってきてしまうので、「不正の動機」を構造的に孕んでいるようにも見えます。
従って時価会計であれば、見積りにも当然幅が出てくるでしょうから、監査法人によって監査の結果が異なることも十分あると考えるのは合理的で、セカンドオピニオンあって然るべきではないかと思います。
投稿: Henry | 2018年11月13日 (火) 11時03分
集団の全員が同じ考え方をするようになって、異論を唱える者や批判的な立場を取る者がいなくなり、その結果、集団が非常に危険な意思決定を下してしまう現象を、「集団浅慮(グループシンク)」と言いますが。監査法人は、企業が集団浅慮に陥らないように、異論を唱える「けなし役」としての期待も、あるのではないかと思います。
ところが長年連れ添っている内に仲間意識ができ、企業と監査法人とが一つの集団として、集団浅慮に陥っているのではないか。そんな投資家の疑念を晴らすためには、その集団の閉鎖性を破る試みが有効である、と。
ただ、集団のメンバーが自らの才能に慢心して、優越感に浸っていれば、集団浅慮の虜(とりこ)になります。「過ちては改むるに憚ること勿れ」という気概を、企業側も、監査法人側ももっているとわかることが、投資家にとっては長期的に見て安心ではないかと、思うのですが。
毎度、素人のコメントで、失礼しました。
投稿: コンプライ堂 | 2018年11月13日 (火) 11時26分
Henryさんへの補足的意見。監査人の判断項目の中に、従前とは異なり「未来予測」が含まれている現実に大きな問題があると考えています。期間損益の確定のために、「むこう三年間の利益予想」などが含まれている現実は、監査人を悩ませ、また、過剰な期待とともに問題があると考えています。
監査の前提条件として「むこう三年間の利益」が含まれ、それをめぐって事業会社と監査人が議論する姿はむしろ滑稽な印象さえ。
こうした、「会社の判断」を外出しにして、堂々と会社が外部に発信する、そして、監査人は、「さすがに三年予想はよくわからないんだが、そこに書いてある会社の判断を前提にすれば、たしかに適正である」、というような開示に改められていけば、現在は内側にもぐっている不明瞭な監査人の責任がなくなり、同時に監査人にも予想業務から解放された上でのより重い責任を課すことができると考えます。
投稿: 周辺の人 | 2018年11月13日 (火) 12時38分
監査業務を実施している者としては思うのは、監査手続は年間を通して様々な人とコミュニケーションをとり、リスク評価や内部統制の整備・運用評価手続、実証手続といった多くの手続を経て、総体としての財務諸表が利用者の意思決定を誤らせない程度に適正に作成されているかについて総合判断するものですので、仮にセカンドオピニオンを発行する立場になった場合、通常の監査と同等程度とまではいかないまでも、それなり以上の工数をかけないと難しいのではないか、というところです。
例えば、通常の監査報酬の半額程度のコストがセカンドオピニオンにかかるとして、そのコストをかけてまでセカンドオピニオンが必要と考える財務諸表利用者はそこまでいないのではないか、と思った次第です。
投稿: 匿名公認会計士 | 2018年11月13日 (火) 12時41分
「周辺の人」様、補足たいへんありがとうございます。
話題の多いのれんの減損会計は正にご指摘の部分に当たると思います。もともとほとんどの企業においては、取締役会が承認した中期経営計画も最終年度に近くなるにつれてパフォーマンスがぐっとアップする「ホッケースティック型」になっていると考えられますから、「むこう3年間の利益の予想」は個別のプロジェクトや事業が対象となるとは言え、それを崩すのは躊躇する傾向が出てくると容易に推測されます。
そして、「むこう3年間の利益の予想」を被監査企業の責任で公表することは常識的には当たり前のことにも見えますが、抵抗が大きそうですね。
投稿: Henry | 2018年11月15日 (木) 09時20分