痴漢逆転無罪(最高裁)判決・私的解説
速報版でも触れておりますが、4月14日最高裁(第三小法廷)は、被告人が下級審で1年2月の実刑判決を受けた強制わいせつ被告事件(満員電車における痴漢行為)について、刑事訴訟法411条3号(判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる場合)を適用して、職権にて破棄自判により無罪判決を下しました。以下は私の個人的な感想にすぎませんが、とりいそぎ要点と思われる点につき、解説をさせていただきます。
本来、最高裁は事実に関する問題については審理をしない、いわゆる法律審(第一審と控訴審は事実審かつ法律審)が原則でありますが、例外として、職権によって事実誤認の有無についても判断することができるわけでして、それが刑事訴訟法411条に規定された場合ということになります。また、現行刑訴法では、控訴審と上告審については事後審制を採用しておりまして、いわば事件そのものを審査するのではなく、原判決を対象として、その当否を事後的に審理する制度、ということであります。したがいまして、例外的に最高裁が事実を審査するとしても、最高裁に証人を呼んできて、新たに直接的に証拠を吟味するのではなく、これまでの下級審において採用された証拠等を再度見直して、原判決の当否を審理する、ということが基本となるわけであります。本判決を理解するには、まずこの点に関する予備知識が必要となります。
満員電車内における痴漢行為について、最高裁で無罪判決が出た・・・ということで、一般的には「被告人の潔白が証明された」とか「被害者の女子高生がウソの証言をして、無実の人を不幸に陥れたことがわかった」といった印象をもたれるかもしれませんが、この最高裁判決は、そういった次元で事実認定がひっくり返った、というものではないようです。(すくなくとも多数意見はそのようなレベルでの判断ではないと思われます)多数意見は、被害者の証言内容の疑問点を3つほど掲げて、こういった(単なる感情的なものではなく、論理的に考えて生まれてくる)疑問点がある以上は、被害者の証言の信用性については一定の疑いを生じる余地を残したものであって、その結果、被告人を有罪とするには「合理的な疑い」を抱かざるをえない、という結論に至っています。
ところが少数意見のおふたりの裁判官(とりわけ堀籠判事)の理屈については、この多数意見の議論とは噛み合っておりません。たとえば堀籠判事がご自身で事実認定をされている箇所(第2 事実誤認の有無)では、説得的な意見を展開されていますが、その文章の末尾がかならず「これを不自然ということはできないと考える」(15ページ中段)、「この点をもってAの供述の信用性を否定するのは無理というべきである」(15ページ下段)、「これをもって不自然、不合理というのは無理である」(16ページ中段)「Aの供述の信用性を否定することはできないというべきである」(16ページ中段)といったように、ほぼ断定的に(自信タップリに)多数意見を切り捨てております。実はこの噛み合っていないところがおそらく本裁判のキモにあたるところではないかと思われます。
つまり、最高裁の「事実認定の在り方」に関する裁判官の意見の相違に起因するのではないかと思われます。そもそも刑事訴訟法411条3号の「重大な事実の誤認」に該当する場合というのは、裁判官の自由心証主義(刑事訴訟法318条)を規律する「経験則、論理則に基づく判断過程に誤りがある場合もしくは誤りがあると十分に疑われる場合」とされておりますが(この点は多数意見も少数意見も同じです)、多数意見は、たとえ例外的であっても最高裁の裁判官が「事実認定」をすることが許されるケースでは、事実認定の結果については裁判官は「無罪推定原則(疑わしきは被告人の利益に)」に十分配慮すべきではないか、と考えるものであります。したがいまして、多数意見の判決内容は、「被告人が有罪であるとの心証を得るには合理的な疑いが生じる」とか「被害者の証言の信用性に一定の疑いの余地がある」といったような(歯に物がはさまったような)言い方ではありますが、その結果として最高裁の裁判官自身の事実認定作業の最後に無罪推定原則を持ち出すことにより、無罪判決へと結論付けることになります。
いっぽう、少数意見のおふたりの判断は、そもそも我が国の裁判所では、裁判官が直接主義、口頭主義によって自由な心証を得て事実認定をするのが原則であって、たとえ最高裁が事実認定を例外的に行うとしても、それは事後審制のもとでは書面によるものにすぎない、したがって事実認定については原審、控訴審の判断を最大限尊重するのが当たり前であって、被害者や被告人を面前で調べてもいない以上は謙抑的に権利行使すべきである、という思想が流れているように思われます。したがいまして、たとえば第一審や原審(控訴審)の事実認定を行った裁判官の経験則や論理則が明らかに不合理といえるような場合に限って刑訴法411条3号事由に該当すると考えますので、先にご紹介したように、不合理かどうか、無理があるかどうか、といった断定的な判断に終始することになります。
もちろん多数意見も、最高裁が事実認定に積極的に口を出すのはレア・ケースである、というところをきちんと絞りをかけています。判決冒頭において、痴漢捜査の危険性(冤罪可能性)を明確に述べ、しかしながら痴漢被害者が泣き寝入りをすることは許されないことから、今後も被害者供述のみによる立件の可能性を認めつつも、その裁判審理における被害者供述の慎重な取り扱いを求めています。その具体化として、上で述べたような無罪推定原則も裁判官の経験則や倫理則の一部を構成する、といった判断や、詳細な証言や臨場感のある証言といった表面的な供述内容だけで信用性を判断することへの警鐘、といったことが問題とされているわけであります。つまり、痴漢事件を強制わいせつ罪や条例違反によって摘発する場合の特殊性(人権と人権のぶつかり合い、司法制度による事実認定の限界)ゆえに、あえて口を出さざるを得ないということなんでしょうね。
こうやって多数意見と少数意見を比較してみますと、結論は正反対ではありますが、その思想については紙一重の違いといっても過言ではないと思います。この判決文を理屈でもって(突き詰めて)考えていきますと、「被告人は痴漢をしたかもしれないけど、その証拠が揃わなかっただけである」とか「被害者女性は、なにかの目的をもって、ウソの証言で無実の人を陥れたのかもしれない」といった言葉で表現されてしまうかもしれません。しかし、この最高裁の裁判は、そのようなことを議論することが主たる目的ではない、ということであります。多数意見に与する裁判官と少数意見を書かれた裁判官の両者に共通して言えることは、「神でもなければ、過去の真実に近づくことはできない。人間が過去の真実に近づく以上は、その権限行使は(人間の能力を超えているという)畏敬の念を以て、謙抑的でなければならない。それでも、被害者が存在する以上は、誰かが過去の真実に近づかなければならない。」といった、人間の力への過信を戒める言葉ではないでしょうか。昨年11月の迷惑防止条例違反に関する最高裁判決においては、女性のふとももを執拗に撮影していた男性について、ひとり無罪の少数意見を書いていた田原判事が、今回は有罪とする少数意見に回っておられますが、法の下における裁判官の姿としては、至極全うなものだと認識いたします。最高裁の裁判官は、常に法の下で理性的判断を怠らない職責を担っているものと信じております。(すいません、ではビジネスマンは今回の判決をもとに、満員電車ではどのようにふるまうべきか、ということも書こうと思ったのですが、長くなりましたので、別のエントリーで書きたいと思います)
PS 昨日の速報版のほうで、下着の上から触った場合には条例違反だと書きましたが、交通ルールさんのご指摘では、「最近の判例では、スカートをまくって下着の上から触った時点で強制わいせつ罪の実行の着手が認められる」そうであります。ご教示ありがとうございました。(ずいぶんと厳しくなっているのですね)
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