3月23日のエントリー「郵便不正事件『証拠改竄-特捜検事の犯罪』を読んで」に対する酔狂さんとcpa-musicさんの議論を拝見し、興味を持ちましたので、酔狂さんの御質問をご紹介して私見を述べておきたいと思います。もちろん内部統制に詳しい専門家ということではなく、多少実務をかじった、あくまでも法律家的な立場からの意見です。酔狂さんのコメント部分から、ご質問部分を抜粋いたしますと、
本件の場合、守秘義務違反という組織の内部統制に反しても、検察最大の不祥事を暴くという「社会の要請」が貫徹されれば、「社会の要請」が優位に立つ、と理解しました。ところで、組織の内部統制と「社会の要請」は、こういう考え方で一般化できるのでしょうか。
この種の問題は、ここまで大きくなくても、日常業務ではよく起こります。かつて銀行の支店長をしていたとき、融資の決定権限が本部にある案件について、取引先からの融資依頼日に本部の承認が間に合わないとき、支店長として自信があれば、融資を実行していました。銀行の内部統制に反していることは明らかですが、それを護ることによって、取引先の資金繰りニーズに応えるという「社会の要請」と矛盾します。私は、迷うことなく「社会の要請」を優先していました。本部は、何日か遅れて承認していましたので、悪いのは、依頼日までに承認をしない本部の側にあると確信していました。本部サイドも、依頼日に間に合うように承認するという、少なくとも職業倫理に反していたことは明らかです。ところが組織の内部では、非難は本部には向かわず、支店長を一方的に悪者に仕立て上げます。今回の投稿には、こういう背景がありました。組織内でこうした矛盾が生じたとき、何が「正義」で、何が「悪い」のか、内部統制論としては、どのように考えるのでしょうか。ご教示をお願いします。
・・・・・・(中略)・・・しかしながら、言われるように、「社会の要請」と「会社のルール」は、トレードオフの関係にあることも多いとしますと、機動的な調整がなされない限り、内部統制は経営者の自己利益が主張されがちになり、社会からすると、内部統制の負の側面が濃厚に出てきます。本当にこれでいいのでしょうか。
ご指摘の通り、ルールを守ること、もしくは「社会の要請」に応えるルールに変更することが重要なことは当然ですが、この舵取りを如何に柔軟にするかが大きな問題と思えて仕方がありません。内部統制論では、そういう機動的な調整は、どのように検討されているのでしょうか。どなたか、ご教示をお願いします。
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酔狂さんは、たしか大手都銀(まだ銀行名が変わる前)の基幹店舗の支店長も歴任された方です。酔狂さんが問題にされておられるのは、支店長として社内ルールに反してでも、支店長の独断で取引先への融資を行うことは、社会の要請に応えることであって「正義にかなう」、しかし社内稟議を経ずに融資を実行したことに対して、社内で悪者になるのは独断で融資を行った支店長であり、これは内部統制ルールが社内では「正義」とされているからではないか、そもそも「社会の要請」と「会社のルール」はトレードオフの関係にあることも多いのではないか、これをどう考えるべきか、といったあたりを問題にされておられます。
うーーーん、私は内部統制と「正義」というものは、あまり関係ないのではないか・・・・と考えております。
内部統制というのは、そもそも「切り口をどこに持ってくるか」ということで、語る人によって異なりますね。金商法を念頭に置けば開示のための内部統制報告制度を想定するでしょうし、株主や会社債権者、取引相手方といった関係者の利害調整を念頭におけば会社法上の内部統制(経営の自由度が高められた平成17年改正会社法下における取締役の善管注意義務)を想定するでしょうし、また企業の業績向上を目指す経営者を念頭に置けば経営管理の一種としての内部統制が想定されます。それぞれの目的がありますので、その目的達成のためのプロセス全般を「内部統制」とみるわけで、それぞれの目的達成のために有意であれば社会的な価値があるものと考えています。
もちろん「社会の要請」に応えるための内部統制、という意味では私も酔狂さんの考え方に同調するのですが、そもそも社会の要請と正義というものが一致するのかどうかは、よくわからないと思います。「正義」という言葉が行為時に客観的な物差しにはなりにくく、たとえば上の例でいえば、取引先の緊急の要請に応えることは「正義である」といえるのは、それが後日事故にならなかったからであって、緊急融資が後日再生債務者管財人から否認されるような事態になってしまえば、「正義」とは言えなくなってくるのではないでしょうか。「ほらみろ、だから社内ルールに従わなかった君が悪かったんだ」と言われても仕方がないということも、ありうるのではないかと。こう考えますと、内部統制に反する行為をとったことが正義に適う場面も、またおかしなルールだと感じながらもルールに従うことが正義に適う場面もありうるように思います。民事事件の代理人をやっておりますと、正義などというものは「絶対的なもの」ではなく、配分的なものであったり、相対的なものであったりするように感じます。
むしろ問題は、内部統制ルールを厳格に運用するあまり、内部統制を構築して得ようとしている企業価値(有意な目的の達成)をかえって毀損してしまうような事態にあるのではないでしょうか。たとえば内部統制報告制度(J-SOX)を運用するにあたって、財務報告内部統制の構築は、株主から負託された金銭を用いて行うわけですから、費用対効果に反することは許されないはずです。しかし、作業の確実な実行にばかり気を取られてルール遵守だけに配慮していると、とんでもない人的・物的資源の浪費につながる可能性があります。酔狂さんが指摘されておられるように、形式的にはルールに反していても、現場がフレキシブルに対応したほうが、取引先からは喜ばれ、社会の要請に応えることができることにもなります。そして現場のルール違反が社会の要請に反しているような運用があれば、これを「異常」として検出できる仕組みのほうに力点を置くシステムのほうが費用対効果という面からみても得策ではないかと思います。私はこれも内部統制のひとつだと考えています。
もし内部統制と正義の関連性を考えるとするならば、それは運用する側の倫理の問題ではないでしょうか。私は負の部分も正の部分もあると思いますし、内部統制システムを経営や法制度のなかで運用する者の心の問題ではないか、と考えますが、いかがなものでしょうか。
話は変わりますが、「郵便不正事件」といえば、4月10日の情熱大陸で弘中弁護士が出演されておりまして、「事件のつかみ」の鋭さに感嘆いたしました。事件の核心に迫っていくモチベーションを高めることや、裁判官を「なるほど」と説得させるためには、「事件のつかみ」がたいへん重要であることは私も同業者として理解しているところですが、弘中氏の「事件のつかみ」がインタビューのなかでうまく表現されており、たいへん参考になりました。これはまた興味深いので別のエントリーにてご紹介したいと思います。