井上薫判事再任拒否問題と裁判所のデュープロセス(4・完)
ライブドア関連のエントリーが続きましたので、前回のエントリーから若干時間が経過してしまいましたが、やはり「井上薫判事の再任拒否問題」について、残っている問題点を考えておきたいと思います。なお、これまでの3つのエントリーにつきましては、ブログの左側のカテゴリー(井上薫判事再任拒否問題)のところへまとめておりますので、そちらをクリックしていただき、ご参照ください。前回までで、いちおう「蛇足を付した判決と判決文の長短の議論は同じかどうか」ということに結論を出したのですが、あと残る問題は「再任審査と裁判官の独立」です。
どこかで以前に書いたかもしれませんが、1998年までは、たしかに裁判所内に「評価カード」のようなものがあって、いくつかの評価基準で裁判官の再任の判断を行っていたようです。しかしながら、こういった評価基準を採用するということだと、本当の裁判官の人物像というものが浮かび上がってこないために、1998年に再任審査のための評価カードというものを廃止してしまいました。このために、最高裁判所が裁判官の再任審査の際、どういった基準によって判断するのか、依然ベールに包まれたような形となりました。実際、最近では毎年2,3名の裁判官が再任を拒否される(おそらく、今回の井上薫判事のように地裁の所長クラスから、それとなく再任希望を取り下げるよう説得され、希望しない旨を申告する裁判官の方もいらっしゃると思いますので、実質的にはもっと数が多いのではないでしょうか)のが実情のようです。
やはり、こういった再任拒否事由といったものが、きちんと説明されないままに「再任拒否」ということになりますと、井上薫判事のおっしゃるように、(裁判所は)事実上個々の裁判官の判断内容へ介入しているのではないか、つまり裁判官の独立を侵しているのではないか、といった懸念が生じるようにも思えます。さらに深刻な問題点は、こういった「理由が曖昧なままで再任拒否」といった判断が増えますと、裁判官の普段の裁判における判断への「萎縮的効果」を招来してしまう、ということにもつながりかねません。(問題提起をしていただいた教授の見解は、再任拒否をおそれて、判決を書くことをビクビクしてしまうようなヤワな裁判官は、そもそも再任されるに値しないのではないか、裁判官をやめたって弁護士として食っていけるわけでから、そういった効果など斟酌すべきではない、といったものでしたが。)
この問題につきましては、いろいろと異論はあろうかとは思いますが、私としてはやはり裁判官の判断における萎縮的効果を考えないわけにはいかないと思います。たとえば、このたびの井上薫判事の再任拒否問題にせよ、いったいどんな点が問題となって拒否されたのか、かなり不透明です。(新聞や雑誌の報道では「判決文が短い」といったことだけが取り沙汰されておりますが、オフィシャルな理由としては説明されておりません)本当に判決文の長短だけなのか、法廷における両当事者への対応が不適切だったのか、それとも週刊誌などに斬新な裁判所改革のための意見を述べたことだったのか、どっちがオモテの理由で、どっちがウラだったのか、ほとんど推測でしか検討することができません。こういった状況では、さすがに他の裁判官も、「現実の裁判所の実務、歴史の重みを持つ裁判慣行」を批判することは、再任拒否につながるのではないか、といった不安のようなものは、いくら「やめても弁護士として食っていける」と考えている裁判官にとりましても、やはり(心理面において)なんらかの裁判官業務に影響を与えるものになってしまうのではないでしょうかね。私としましては、今後の課題としても、この再任拒否に関する手続は、もう少し理由を付記するなどして、明示することが公正なのではないか、と考えております。そうであるならば、裁判官の恣意的判断を防止するため(国民の裁判を受ける権利を実質的に担保するために)、また裁判所のデュープロセスを確保するために、一定の合理的な理由があれば再任拒否の判断を下されることも、やむをえないものと思いますし、裁判官の独立を最低限度保証するシステムになりうるのではないか、と考えられます。また、近頃は各都道府県の単位弁護士会におきましても、「裁判官勤務評定」を行っておりまして、これも裁判所における人事評価の参考意見とされているそうです。このたびの井上薫判事の問題につきましても、複数の弁護士から「判決が短すぎてわかりづらい判決」とのクレームが述べられていたそうです。そういった民主的な判断事由を裁判所も取りあげてこそ、(裁判官再任拒否手続における理由付記を補完するものとして)再任拒否判断の正当性を基礎付ける事実となりうるのではないでしょうか。
最後になりますが、井上判事の著書の愛読者として、ひとこと申し上げることが可能であるならば、あまり裁判所との闘いに時間と労力を費やすよりも、司法分限主義を考える醍醐味といったものを、ロースクールや法学部の学生の方々に伝承されることに力を注いでいただけたら、と思います。そして、もし井上判事が自ら提言される裁判所改革のようなものを実現したいと思うのでしたら、そういった司法分限主義に共感する後進の指導のなかで、井上判事の見解にあこがれてひとりでも多くの裁判官を生み出すことに尽力されることが、本当の意味での「裁判所改革」の近道ではないでしょうか。(でも、蛇足=裁判官の違法といった論理はどうしても私は同調しかねます・・・・・ 完)
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