2006年1月22日 (日)

井上薫判事再任拒否問題と裁判所のデュープロセス(4・完)

ライブドア関連のエントリーが続きましたので、前回のエントリーから若干時間が経過してしまいましたが、やはり「井上薫判事の再任拒否問題」について、残っている問題点を考えておきたいと思います。なお、これまでの3つのエントリーにつきましては、ブログの左側のカテゴリー(井上薫判事再任拒否問題)のところへまとめておりますので、そちらをクリックしていただき、ご参照ください。前回までで、いちおう「蛇足を付した判決と判決文の長短の議論は同じかどうか」ということに結論を出したのですが、あと残る問題は「再任審査と裁判官の独立」です。

どこかで以前に書いたかもしれませんが、1998年までは、たしかに裁判所内に「評価カード」のようなものがあって、いくつかの評価基準で裁判官の再任の判断を行っていたようです。しかしながら、こういった評価基準を採用するということだと、本当の裁判官の人物像というものが浮かび上がってこないために、1998年に再任審査のための評価カードというものを廃止してしまいました。このために、最高裁判所が裁判官の再任審査の際、どういった基準によって判断するのか、依然ベールに包まれたような形となりました。実際、最近では毎年2,3名の裁判官が再任を拒否される(おそらく、今回の井上薫判事のように地裁の所長クラスから、それとなく再任希望を取り下げるよう説得され、希望しない旨を申告する裁判官の方もいらっしゃると思いますので、実質的にはもっと数が多いのではないでしょうか)のが実情のようです。

やはり、こういった再任拒否事由といったものが、きちんと説明されないままに「再任拒否」ということになりますと、井上薫判事のおっしゃるように、(裁判所は)事実上個々の裁判官の判断内容へ介入しているのではないか、つまり裁判官の独立を侵しているのではないか、といった懸念が生じるようにも思えます。さらに深刻な問題点は、こういった「理由が曖昧なままで再任拒否」といった判断が増えますと、裁判官の普段の裁判における判断への「萎縮的効果」を招来してしまう、ということにもつながりかねません。(問題提起をしていただいた教授の見解は、再任拒否をおそれて、判決を書くことをビクビクしてしまうようなヤワな裁判官は、そもそも再任されるに値しないのではないか、裁判官をやめたって弁護士として食っていけるわけでから、そういった効果など斟酌すべきではない、といったものでしたが。)

この問題につきましては、いろいろと異論はあろうかとは思いますが、私としてはやはり裁判官の判断における萎縮的効果を考えないわけにはいかないと思います。たとえば、このたびの井上薫判事の再任拒否問題にせよ、いったいどんな点が問題となって拒否されたのか、かなり不透明です。(新聞や雑誌の報道では「判決文が短い」といったことだけが取り沙汰されておりますが、オフィシャルな理由としては説明されておりません)本当に判決文の長短だけなのか、法廷における両当事者への対応が不適切だったのか、それとも週刊誌などに斬新な裁判所改革のための意見を述べたことだったのか、どっちがオモテの理由で、どっちがウラだったのか、ほとんど推測でしか検討することができません。こういった状況では、さすがに他の裁判官も、「現実の裁判所の実務、歴史の重みを持つ裁判慣行」を批判することは、再任拒否につながるのではないか、といった不安のようなものは、いくら「やめても弁護士として食っていける」と考えている裁判官にとりましても、やはり(心理面において)なんらかの裁判官業務に影響を与えるものになってしまうのではないでしょうかね。私としましては、今後の課題としても、この再任拒否に関する手続は、もう少し理由を付記するなどして、明示することが公正なのではないか、と考えております。そうであるならば、裁判官の恣意的判断を防止するため(国民の裁判を受ける権利を実質的に担保するために)、また裁判所のデュープロセスを確保するために、一定の合理的な理由があれば再任拒否の判断を下されることも、やむをえないものと思いますし、裁判官の独立を最低限度保証するシステムになりうるのではないか、と考えられます。また、近頃は各都道府県の単位弁護士会におきましても、「裁判官勤務評定」を行っておりまして、これも裁判所における人事評価の参考意見とされているそうです。このたびの井上薫判事の問題につきましても、複数の弁護士から「判決が短すぎてわかりづらい判決」とのクレームが述べられていたそうです。そういった民主的な判断事由を裁判所も取りあげてこそ、(裁判官再任拒否手続における理由付記を補完するものとして)再任拒否判断の正当性を基礎付ける事実となりうるのではないでしょうか。

最後になりますが、井上判事の著書の愛読者として、ひとこと申し上げることが可能であるならば、あまり裁判所との闘いに時間と労力を費やすよりも、司法分限主義を考える醍醐味といったものを、ロースクールや法学部の学生の方々に伝承されることに力を注いでいただけたら、と思います。そして、もし井上判事が自ら提言される裁判所改革のようなものを実現したいと思うのでしたら、そういった司法分限主義に共感する後進の指導のなかで、井上判事の見解にあこがれてひとりでも多くの裁判官を生み出すことに尽力されることが、本当の意味での「裁判所改革」の近道ではないでしょうか。(でも、蛇足=裁判官の違法といった論理はどうしても私は同調しかねます・・・・・   完)

1月 22, 2006 井上薫判事再任拒否問題 | | コメント (4) | トラックバック (2)

2006年1月16日 (月)

井上薫判事再任拒否問題と裁判所のデュープロセス(3)

昨日のエントリーに対しまして、SOJさんより詳細なコメントを頂戴いたしました。昨日紹介させていただきました事例の解決としまして、賃貸借契約における賃貸人からの解除を正当とする「信頼関係破壊」を基礎付ける事実の認定過程(程度型の場合)と、他人の違法行為によって損害を受けた者の時効期間経過後の賠償請求事件の「違法行為」認定過程(順序型の場合)につきまして、裁判所が「信頼関係を未だ破壊するに至っていない」とか「どっちみち消滅時効が成立する」といった心証を得た場合に、評価根拠事実の認定過程や違法行為の認定過程を理由中に記述して判決を下す、といったことは「蛇足」(無駄な記載を含む判決を下すものであって、そのような裁判行為は違法)になるのでしょうか。
まず、SOJさんは、「程度型」の事例については以下のように述べていらっしゃいます。

「信頼関係が破壊されているとまではいえない」という結論を出すのには,少なくとも「信頼関係が破壊されていることを基礎づける事実」すべてに関する事実認定が必要です。次に,信頼関係が破壊されているとの評価を阻害するに足りる事実(これは全て認定する必要がないこともありえます。)を認定します。その上で,上記認定事実に鑑みれば,未だ信頼関係が破壊されているとまではいえないと判示すべきです。このように判示してあれば,上記判断に不服のある当事者が上訴する場合に,原判決の事実認定がおかしいとか法的評価がおかしいとか具体的に論難することが可能になります。
他方,「信頼関係が破壊されていることを基礎づける事実」の有無が全く認定されていないのであれば,「信頼関係が破壊されているとまではいえない」との判断に不服があっても何を攻撃したら良いのかが全く分かりません。私が上訴代理人であれば,原判決には理由不備の違法があると指摘します。

井上判事の著書の信奉者である私としましても、(残念ながら)このSOJさんの意見にまったく同感であります。現実に裁判代理人を日々担当している立場としまして、不動産明渡事件などのケースで「信頼関係違背に該当するかどうか」が最大の争点となる場合は頻繁に経験するわけですが、どういった根拠事実が足りなかったのか(もしくは事実認定のためどういった証拠評価がされたのか)、また相手方の主張した信頼関係違背を打ち消す事実がどう評価されたのか、を判決によって知ることができなければ、果たして控訴裁判所で、原審裁判官の判決をどう批判すべきか理解不能に陥ってしまいます。最初のエントリーの際にも申し上げましたが、日本の裁判では代理人弁護士をつけない一般国民が(本人訴訟の原則)、少なくとも事実、法律両面において最低2回以上の異なる裁判官の裁判を受けることが保証されていますし、これが保証されない場合には憲法上の国民の「裁判を受ける権利」が侵害されていう状況が出現されてしまいます。したがいまして裁判官としましては「あなたの主張する(信頼関係違背)といった解除根拠については、こういった事実が認められて、なるほどとは思うんだけど、相手からはこういった事実が主張され、それも証拠によって認められるから、もうすこしというところで信頼関係が破壊された、とまでは評価できませんでした」と説明してあげることは、一般国民の法的素養を基準とした観点から理解しうる程度には必要ではないか、と思われます。

さて、つぎに順序型のケースにおきましては、SOJさんは次のとおりコメントされています。

ただ,順序型の場合には,井上判事の「蛇足」との批判が全く成り立つ余地がないとまで断言する気はありません。消滅時効が明らかに成立するのであれば,不法行為の成否に触れることは適切ではないというのはありえる見解です。まさに司法の役割をどう考えるかの根源に関わってくる問題です。
もっとも,不法行為の態様等によっては,消滅時効の援用が権利の濫用として許されないという法理を承認するのであれば,不法行為の成否を認定する必要がある場合もありうることを付言しておきます。

井上判事の「判決蛇足主義」が有力に唱えられる最大の根拠は、じつはこの「順序型」にあるのではないでしょうか。井上判事の類型のうち、いくつかのものが「蛇足」ではないとの反論が可能でありましても、この「順序型」については反論不能ということであれば、(範囲が異なるとはいえ)判決理由には「蛇足」と評価しうるものもある、と認めざるをえなくなり、井上判事の提唱される理論の正当性を一部担保するものと認めざるをえないように考えられます。ただ、私はつぎのような理由から、判決理由に傍論を付すかどうかは「裁判官の裁量行為」であって、井上判事の提唱している「蛇足=裁判官の違法」は成り立たないと考えています。

ひとつめは、要件事実論の考え方であります。たしかに消滅時効の抗弁事実の認定過程さえ論じれば、設問事例では当事者の紛争解決のためには十分でありますが、民商法の「消滅時効」の規定の仕方を読むと、そこにはまず「請求権の存在」が既定のものであるように、素直に読めます。もし消滅時効といった制度が、「権利の上に眠る者を保護しない」といった趣旨で規定されたのであるならば、当然のことながらまず原告の請求権が存在して、その請求権の行使を障害するのが時効制度だと認識できます。そのように考えるならば、要件事実論にも忠実に再現すべきでしょうし、裁判官は(たとえ訴訟経済的には不経済であっても)まず請求権存否、その後時効抗弁の存否、といった順序立てた判断基準に拘束されるのだ、といった議論も成り立ちます。もし、時効制度の趣旨といったものが「平穏な現実状態の保護」にある、といった法的安定性を重視する立場から説明されるのであれば、要件事実論としても、請求権の存否とは無関係に消滅時効の要件該当性のみを判断することも可能でしょうし、井上判事の言われるように請求権の根拠事実を論ずることは蛇足になりそうです。しかしながら、民商法上の消滅時効の制度について、どういった制度趣旨が正しいのかといった問題は決着をみないものですし、おそらく法律を扱う人間の法律観に委ねられているものでしょうから、「どっちが正しく、どっちが間違い」といった問題ではないと思われます。このように考えますと、政策的な理由というよりも、理屈の問題として「蛇足=裁判官の違法行為」にはどうしてもなりえないのではないか、と思う次第であります。

さて、もうひとつの理由としましては、井上判事の提唱を根拠付ける「蛇足を付すことによる弊害論」への疑問であります。井上判事は「違法行為を裁判官が判断しつつ、消滅時効によって違法行為者を勝たせてしまうと、違法行為者は、控訴することによって自らの名誉を回復する術がなくなってしまい、実質的な敗訴者になってしまう。」ということを憂いていらっしゃいます。ただ、この弊害論につきましても、なぜ裁判に勝訴した者の名誉が侵害されるか、といいますと、それは現実の日本社会における法学教育やマスコミ報道の影響によるものでして、民事事件では51対49の心証であっても裁判官は「違法行為を認定する」可能性があるのであって、刑事事件の裁判官が違法行為(刑罰を課す)心証程度とは大きく異なることが知悉されていない現状とか、これをマスコミが国民に適切に説明していないといった現状によって形成されているわけでして、今後の法学教育なりマスコミの対応に変化が生じれば名誉侵害といった状況も変化する可能性があるわけです。また、刑事裁判が進行するのであれば、その裁判において名誉回復を図ることもできるわけですし、検察官による訴追がなければ、これも名誉回復を基礎付ける事実にもなりうるわけです。そのように考えますと、「法的に」裁判官の判断対象を抑制するに値するだけの根拠となりうるか、といいますとかなり疑問が生じるように思えます。
こういったことから、私としましても井上判事が「蛇足」として論じていらっしゃる具体的な事例での判決理由につきまして、「蛇足」なのか「重要な判決中の傍論」と考えるのかは、明確な結論はだしえないのであって、最終的には「独立性」を保障された裁判官による裁量の問題であると評価いたします。

2 裁判官の再任拒否問題と裁判官の独立との関係

以上のような考えからから、私は井上判事の主張されるような「蛇足=裁判官の違法」にはなりえないことを説明いたしましたが、それと同時に「蛇足を付さない=再任拒否事由に該当する」といったことも成り立ちえないと思います。なぜなら、裁判所としては判断事由の可否についての各裁判官の考え方は裁量に委ねるはずですし、まずもって「蛇足」と言われる範疇が存在すること自体、おそらく認めないであろうと思われるからです。したがいまして、論点のすりかえ、といったことも理論上はありえないはずです。さてそれでは、「判決の長短」をもって、これも各裁判官の裁量に属する事由であって、再任拒否の理由とはならないのか、これをもって再任拒否とすることは裁判官の独立を侵害することになるのか、この点についてつぎに検討してみたいと思います。(今度の週末あたりにつづく・・・とさせてください。あぁ しんど・・・・・また、明日はビジネス法務モノに復帰いたします。。。)

1月 16, 2006 井上薫判事再任拒否問題 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月15日 (日)

井上薫判事再任拒否問題と裁判所のデュープロセス(2)

12月23日のエントリー(井上薫判事再任拒否と裁判所のデュー・プロセス)に対しまして、このお正月、ある大学教授の方よりご意見を頂戴いたしました。(数時間ほど、実名コメントが掲載されておりましたので、おわかりの方もいらっしゃるかもしれませんが・・・)おおよその事件概要もおわかりいただけると思いますので、すこし引用させていただきます。(なお、ご本人とわかる部分につきましては、こちらで勝手に省略させていただいておりますのであしからずご了解ください。また教授よりこういった引用について、ご迷惑になるようでしたら引用を取り消す場合がございますので、よろしくお願いいたします)

井上薫判事の「我、『裁判干渉』を甘受せず」(諸君2006年1月号80頁以下)を読んで、雑ぱくな感想を書きます。
 この論文は、横浜地裁の浅生重機所長が井上判事に対し、判決の理由が短いので改善するようにと勧告したが改善されていないので、人事評価で減点されたということが、裁判官の独立を害する裁判干渉であるとしている。
  ここで、判決の主文に必要のない蛇足判決を批判して、実践していることが、判決の理由が短いということと同じこととされている。仮にそうであるならば、判決の理由が短いことは、意見の違いはあれ、非難には値せず、改善を求められる理由にはならない。
しかし、この井上論文を読んでも、蛇足をつけないことと、短いこととが同義であるとの説明は見つからない。普通にいえば、判決の理由が短いというから改善せよということは、蛇足を付け加えよというのではなく、主文を納得させる理由が簡単すぎて、説得できないとか、当事者の主張に答えていないということを意味する。
(中略・・・)

 裁判官の再任の際の審査事項であるが、新任と同じく自由裁量なのかという問題が提起されているが、再任の際に、これまでの判決が分析評価されて、裁判官としての能力が不足なら、辞めて貰っても、裁判の独立の保障には反しないというべきである。裁判官になった以上は、ずさんでも定年まで独立が保障されているというなら、それは恣意も保障されることで、裁判の当事者にとってたまったものではない。裁判官の独立は保障されても、庶民の裁判を受ける権利は侵害されてしまう。

 問題は、再任の際の審査の手続きと基準の問題である。それがこれまで不透明であったから、裁判官の独立を害する可能性が大きかったが、それをまっとうな基準とし、透明にすれば、だめな判事には辞めて貰っても、まともな判事は残れるから、それでよい。それこそが裁判官の任期制の本旨ではないか。裁判官は、再任されなくても、これまでの高給で蓄えもあるはずだし、弁護士として食っていけるはずだから、再任されないことをおそれて、裁判の独立を放棄するべきではない。再任拒否をおそれる、そんな気の弱い判事に、判事としての高給を与える必要はない。

 再任審査の透明性と合理性の確保の方法については今回は述べないが、ただ、個々の判決の内容で意見の違いの問題ではなく、外形的な問題であれば、再任審査の対象になるのはやむをえないのではないか。それは裁判官を恣意的に放逐することにはつながらないと思われるから。
(中略・・・)

 むしろ、そのような判事を裁判所から放逐する方が国民の裁判を受ける権利を保障することになる。
  要するに、判決が短い、改善せよという趣旨が蛇足を書けという趣旨かどうかが肝心のことだと思う。この点では、井上判事の論文は、やはり短い、理由が不足している。蛇足を書けとは言わないが、短いということが蛇足を書けということと同じ趣旨とするためには、もっと説明が必要である。たとえば、浅生所長にその真意を確認して、そうだといって貰うなどのことが本来必要ではないか。

私もアマゾンでこの井上判事の論文の掲載されている「諸君!」1月号を取り寄せまして、ひととおり読ませていただきました。また、この論文のなかで井上判事が掲示しておられる著書「判決理由の過不足」(法学書院)も再度目を通してみました。(井上判事の著書は、以前から所持しております。)

私は、基本的に井上判事の提唱されておられる「司法分限主義」(裁判所は、紛争を解決する範囲において事実の認定、法律の適用をすべきであり、その権力行使にあたっては謙抑的であらねばならない、判決理由についても社会に影響を与えるような事実については、その判決の主文を導くために必要最小限度に留めるべきである)に同調する立場であります。しかしながら、司法分限主義に対峙するものとして「司法蛇足主義」を位置づけることについてはどうも同意しかねるところがあります。

この問題については、ふたつに整理して考えたいと思います。ひとつは「裁判官の再任審査と裁判官の独立」との関係であり、もうひとつは井上判事が主張しているとおり、果たして蛇足を付すことは裁判所法3条1項に違反する「裁判官の違法行為」(判決理由の過不足のなかで、このように明言されていらっしゃいます)たりうるのか、といった問題であります。もし、井上判事のおっしゃるように、理由に蛇足を付すことが違法ということであれば、これも一種の裁判所のデュープロセス違反ということで、蛇足と判決の長短との関係を十分吟味する必要が生じるからであります。
そこでまず、この「二つめ」の問題から考察してみたいと思います。

1 井上判事が指摘される傍論部分は、果たして「蛇足」か?

たとえば、損害賠償請求事件において、原告が被告の「違法行為」を主張して、被害の賠償を求めた事件で、被告は「違法行為」がなかったことと同時に、請求してきた時期が時効期間経過後であることを主張して、消滅時効の抗弁を提出したとします。この裁判を担当した裁判官としては、原告が明らかに時効期間経過後に裁判を提起してきた、との心証を抱いた場合、「違法行為」の認定を行うことは「蛇足」であって、消滅時効の争点のみによって被告を勝たせるべきである、というのが井上判事のご意見です。たしかに、紛争解決のために必要な争点は「消滅時効の成否」であって、(どっちみち違法行為を認定してみても、被告は消滅時効いよって勝訴するわけですから)違法行為の認定ではありません。またもし、違法行為はあったが時効によって原告の請求は棄却、との理由で被告が勝訴した場合、被告は裁判には勝ちましたが、自らの行為を「違法」と評価されたまま控訴もできない状況に置かれます。たしかにこれは被告の名誉を回復するすべがないということで不都合が生じます。(蛇足類型の「順序型」)

つぎに、たとえば建物の賃貸借契約の解除が認められるかどうか、といった事件におきまして、解除が認められるためには通常「貸主と借主との間において、借主の債務不履行の程度が双方の信頼関係を破壊するに至る程度かどうか」といった判断基準を用いますが、これを基礎つける事実認定といったものは、「信頼関係を破壊した」と法的な評価を行える場合にのみ事実認定すべきであって、いくつかの破壊要因となる事実認定をしておきながら、「それでもなお、破壊する程度には至らない」とする結論であるならば、その認定事実は「蛇足」である、とのことです(蛇足類型の「程度型」)

たしかに、そういわれてみると、説明しなくてもいいことを理由のなかで付記しているようにも思えますし、その弊害すら危惧される事例のようでもあります。ちょっと法律を学んでいらっしゃる方以外の皆様には難しいかもしれませんが、本当にこれらが「蛇足」かどうか、もしお時間がございましたらご検討いただけますでしょうか。私の意見につきましては、次回に述べたいと思います( よくよく考えると、私のブログ自体が「蛇足」そのものかもしれない・・・と不安におののきながら つづく)

1月 15, 2006 井上薫判事再任拒否問題 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年12月23日 (金)

井上薫判事再任拒否問題と裁判所のデュー・プロセス

neon98さんが、 「LLM留学日記」で取り上げていらっしゃいます が、「判決理由が短い」との理由で裁判官20年目の再任を拒否されようとしている井上薫判事が記者会見を21日に開いたそうです。
(ニュースとしましては、朝日ニュース と 共同通信ニュース をご参照ください。)

井上薫判事は、週刊誌でも「他の裁判官の判決内容への批評」などが報道される方で、法曹界ではかなり有名な裁判官でいらっしゃいます。東大理学部、大学院を修了後に司法試験に合格されたユニークな経歴をお持ちの方で、「裁判官と考える法律学シリーズ」(法学書院)は非常におもしろく、「こんな考え方もあったのか!」とまさに「目から鱗」の連続でして私も愛読者のひとりでございます。クライアントや学生の方々と円満に対話のおできになるかたかどうかは、私は存じ上げませんが、井上薫判事のお書きになった書籍を読ませていただいたかぎりにおきましては、(もし再任拒否ということでしたら)法科大学院の教授や、経済法関連の弁護士として、その類まれなる能力を発揮されるのではないか、とひそかに期待をしております。

1 井上薫判事を擁護する

ブログというメディアの性格上、私の勝手な意見もお許しいただきたいのですが、「判決文、判決理由が短い」といったことだけが当面の再任拒否の対象となっているのかもしれませんが、これは井上判事の主義主張の片面だけを取り上げたものでありまして、井上判事が「裁判官はもっと判決理由を書くべきだ」と主張している分野のことなどは、まったく取り上げられていないようです。そもそも、井上判事は「裁判官は、事案の紛争解決に必要な範囲において社会に影響を及ぼすような判断理由を付すべきである」といった司法謙抑主義(司法分限主義)を貫く方でして、事件解決に不要な論点についてまで裁判所が判断することは百害あって一利なし、という考え方をお持ちです。これは現在の民事訴訟の基本原則(当事者主義)に根ざした考え方でして、裁判の争点を形成するのは、裁判当事者ですから、裁判官はその当事者の主張内容に拘束されながら判断をしなければなりません。職権を発動して、裁判官自らが証拠を採用したり、主張を追加することはできないわけです。そういった訴訟構造からみた場合に、裁判所がなしうる範囲というのは自ずと限界があるわけでして、その限界を超えた「裁判所の政策形成機能」は、有益な情報を得ないままに不適切な判断を出してしまう恐怖を抱えている、ということを非常に危惧されておられます。(だからといって、事件の解決に必要な最低限度の判断でいいのかどうか、といったことにつきましては、これまた民事裁判の大原則であります「要件事実論」からの反論が待っているわけですが、これを議論してしまいますと法曹関係者以外にはまったくわからない話になってしまいますので、ここでは取り上げないこととします)逆に、井上判事は「司法分限主義の範囲に属する判断過程については、裁判官はもっと当事者から事情を聞きだすなり、証拠を提出させるなどして、社会背景や社会事情に精通して、国民が納得する程度に詳細な判断理由を書かなければならない」と主張されておりまして、実際に「理由記載」の方法論なども提唱されていらっしゃるところであります。つまり、ほとんどの裁判官が、これまで疑おうとされなかった「判決理由とは何か」といったことを問題点として指摘され、それを自らの裁判官実務に実用されていたのが井上判事の行動パターンではなかったか、と推測いたす次第であります。実際、刑事事件は別としまして、民事事件におきましては、代理人弁護士が訴訟を担当しておりますと、ここまで極端ではなくても、判決文が短い裁判官はいらっしゃるわけでして、その判決文の短さは裁判官だけの責任かといいますと、そうでもないと私は思っております。事件解決に必要な争点を形成できなかったのは、代理人弁護士の能力に起因することも多いと思いますし、また弁論期日や、準備期日に裁判官との口頭でのやりとりのなかで、「このままですと短い判決になってしまいますよ」といった裁判官のサインに協力しなかったことによるのかもしれません。いずれにしましても、事案の性格や、担当弁護士の立証方針などを検討することなく「判決理由が短すぎる」といったことだけで再任拒否の理由になる、ということはすこし違和感を覚えるところであります。

2 井上薫判事再任拒否の結論の妥当性を考える

それでは、最高裁判所の再任審査機関が、井上判事が記者会見で述べたように、広く反論の機会を与え、再任拒否理由を詳細に告知すべきか、といいますと、これもおそらく「そもそも裁判官の示すべき判決理由とはなにか」といった「大切ではあるが抽象的」なために、一義的に結論が出ない方向へ議論が進むことを(最高裁が)好まないものと思いますので、そういった方針はとらないだろう、と予想いたします。

そこで私の意見ではありますが、上記のとおり井上判事を擁護すべき点を最大限配慮してもなお、「判決文が短すぎる」なる理由で再任拒否と評価することにつきましては、「裁判所のデュープロセス」という観点からみてやむをえないものであって、裁判官の独立も侵害しない、という見解に与したいと思います。たしかに我々のような職業法律家が当事者を代理して裁判審理に立ち会っているケースでしたら、多少判決文が短かろうが、判決理由が不明瞭であろうが、控訴審への不服申立にたいする影響は大きくないかもしれませんが、日本の裁判というのはあくまでも「本人訴訟」が基本であります。つまり、裁判官が下すべき判決というのは、基本的には素人である一般人が控訴できる程度に判断理由が理解しやすいものでなければなりません。もし、一般の人にとって理解不明な判決理由ということでありましたら、弁護士に相談できるほどのお金のない人にとりましては、「事実の認定において2回の裁判を受ける権利」が保証されなくなるのではないでしょうか。ご承知のとおり、(民事訴訟の場合)控訴裁判所というところは、「続審性」を採用しているものですから、地方裁判所の事件がそのまま控訴審に継続する、といったイメージのものです。その継続している裁判におきまして、別の裁判官が、地裁の裁判官の判断内容を評価したり、新たな証拠をもって再度判断しなおすわけです。そういった裁判手続きを受ける権利が国民一般に保証されている限りにおきましては、やはり一般の人が「前の裁判官のこういった理由は納得できない」と控訴審で主張できるに足る程度の「判決理由」は付さなければ、国家権力の担い手である裁判所の適正手続きに問題が発生している、と言わざるを得ないのではないか、と考えております。なお、この点につきましては、井上判事も持論がございまして、たとえ具体的な事件当事者が判決を理解できなくても、一般水準の国民がわかる程度の内容で判決理由を記載すればよい、とのお考えのようです。ただ、現実問題としましては、判決理由の把握できる程度の「国民の一般水準」というものが、いったいどの程度であるかは、検討不可能でありますし、結局のところは、そういった理解の「しやすさ」といったものは判決文の長短でしか判断はできないとしか表現の仕様がないのではないか、と思います。したがいまして、この点に関する井上判事の持論は効果的ではないと思っております。

また、1で述べたところから、私は井上判事の提起している問題は「裁判官の独立」にも影響を及ぼす問題として捉えておりますが、ただ裁判官の独立を議論することに意味をもつのは、司法手続が国民に対して適正に行使されていることが前提でありますから、そもそも最高裁判所は、権力行使が適正とは認められない現実を早急に是正する必要は高いものと思われますので、本件ではこれを排斥することもやむをえないものと考えております。

もうひとつ、これは本筋とは離れますが、井上薫判事は、裁判の政策形成的機能を重視し事案解決に不可欠ではないと思われる争点にも言及する裁判官の判断を「蛇足」というコトバをお使いになって論難されることが目立ちます。(司法蛇足主義など・・)「蛇足」というコトバはかなり辛辣であり、裁判官のプライドをいたく傷つける言葉のような気もいたします。「裁判官の独立」ということを自らご主張されていらっしゃいますが、裁判官という職業は、その「独立」が憲法上保障されるほどに気高い存在なのでしょうから、それに伴う気品といいますか、品位のようなものも配慮されるべきだと思ってしまいます。(作らなくてもいい敵まで作ってしまうといいますか・・・・)ご自身がそうであるように、裁判の政策形成機能を重視したいと思う裁判官の方々も、「能力が乏しい」ためにそうされているのではなく、主義主張をお持ちのうえでのことでしょうから、どうも「蛇足」というコトバで切り捨ててしまわれるのは、いかがなものか・・・と前々から疑問に思っております。こういった部分がなければ、もっと別の裁判官あたりから、再任拒否問題への異論(つまりは、井上判事への賛同の意見)が出てくるのではないか、(たとえばneon98さんがおっしゃるように、せめて再任拒否の手続きだけでも整備されねばならないのではないか・・・など)とも思うのですが。

12月 23, 2005 井上薫判事再任拒否問題 | | コメント (6) | トラックバック (1)