2005年12月26日 (月)

証券取引所の規則制定権を再考する

11月下旬にエントリーさせていただきました黄金株と司法判断(1と2)のなかで、証券取引所の規則制定権や、審査権限、処分権限がなぜ万能なのか?といった疑問につきまして、たくさんの方のコメントを頂戴いたしました。その際に、私はそもそも東証の規則制定権や上場廃止処分(および、この権力を参加者が甘んじなければならないこと)については、なんらかの「法源」つまり民主的コントロールの正当性がなければ認められないのではないか、といった立場でした。そして、投資サービス法が制定される今こそ、こういった問題が議論されねばならないという結び方をしておりました。

このたび、金融審議会金融分科会第一部会より、「投資サービス法(仮称)に向けて」と題する第二次とりまとめ案が12月22日に公表されました。このとりまとめ案の中におきまして、今後取り扱われる金融商品の拡大が予想される「取引所」のあり方につきまして、軽くではありますが整理された提言が付されております。(27頁~30頁)

以前のエントリーとの関連で目を引きますのは、「自主規制機能を担う取引所の組織のあり方」という項目のなかで、「上からの自主規制機能」の面と「下からの自主規制機能」の面があるとされております。上からの自主規制機能といいますのは、いわゆる法律による授権がある、とする解釈でして、証券取引法が規則制定や処分権限を取引所に義務付けていたり、取引所を免許制にしたり、定款への認証を必要としていることが、まさに「法律によるコントロール」の源である、と表現されております。興味深いのは、上のとりまとめ案は、「法律の授権により公的な役割の一部を取引所が行使する」とまで言い切っているところであります。たしかに、ここまで明言されますと、参加者が改正された規則に従ったり、上場廃止処分に甘んじることの根拠になりそうです。

また、「下からの自主規制機能」というのも、私も(なんとなく、ですが)予想していたところであります。「会員の自治の理念」つまり、私的な団体内部の自律的機能というものにつきましては、一般に「法の支配」の限界と位置付けられることが多いわけでして、これはおそらく証券取引所が発展してきた歴史的経緯を重視するならば、証券取引所とそこに参加する証券会社においては、一種の「部分社会」が形成されており、一般法をそのまま適用することはできない(つまりは、団体の意思決定を万能のものと認める)という「司法権の限界」から派生するルールを重視するものであります。ひょっとしますと、こういった部分社会の法理といったものは、このたびの みずほ証券の誤発注問題への民商法の適用(参加者同士も、この部分社会を構成する者に該当するとして)についても検討できるのかもしれません。

上のとりまとめ案では、(若干、不明瞭な点はございますが)さすがに上手に整理されていらっしゃる、と関心している次第であります。と同時に、投資サービス法をとりまとめようとされている委員の方としましては、どうしても取引所の規則制定権限や処分権限の正当性を上手に説明すること、とりわけ「一般投資家の利益保護」といった目的との関連で説明をすることがどうしても必要になってくるのではないでしょうか。まだ、この点につきましては、私論と呼べるほどの意見を持ち合わせてはおりませんが、投資サービス法の検討にあたりましては、さらにこの問題を正面から受け止めて、明確な論拠を示していただきたいものと期待しております。ただ、たとえば公的ルールの一端を取引所が担う、といった側面を強調するのでしたら、このたびの「東証システムの障害」のような事件が発生したときに、国は「不作為の違法責任」を負うものと考えられるのかどうか、あらためて問題になるでしょうし、取引所の活性化を図るための営業団体としての性格と、公的ルールを担う性格が両立しうるのかどうか、厳しい要件設定の必要性が問題になってきそうですね。また、「部分社会」としてのルールを強調するのであれば、投資サービス法の制定によって、取引所への加入強制が拡大される状況でも、果たして法の支配の適用外と言い切れるのかどうか、さらに議論が必要だと思います(いままでは、参加したくなかったら、別の団体へ行くか、勝手に営業すればいい、と言える状況があるからこそ、その社会の掟が万能と認められたわけですが、加入しなければ営業ができないとなりますと、営業権侵害といった問題との関係で法の支配が及ぶ範囲が拡大するものと予想されます)

12月 26, 2005 証券取引所の規則制定権(再考) | | コメント (2) | トラックバック (0)